1-2 長屋の死体
目をまたたく男から、戸口へ視線を流す。
「外、騒がしくなってきましたね。役人も来るころでしょうか。妖怪が相手なら、無駄足になるでしょうけど」
いつのまにか日が昇り、長屋の人々が起きだす気配があった。外に出ると、すぐそこを歩いていた女と視線が重なる。
「あら、豆さん。今日も早いわねえ。って、なんでその部屋から出てくるんだい? まさかそこの娘といい仲に……?」
「いえいえ、そんなものでは」
興味津々な彼女に苦笑しながら、面倒なことになる前にと戸を閉めようとした。だが、遅かった。彼女の瞳に部屋の様子が映る。とたんにその表情が凍りつき、つんざくような悲鳴が上がった。
これは、まずそうだ。
案の定「どうしたんだい」と長屋の戸が次々に開き、あっというまに野次馬に囲まれてしまった。好奇心の波が迫ってくるから、どうしたものか。現場を荒らすわけにはいかないし、骸を見られるなんて死んだ女も嫌だろう。
豆はどうにか野次馬を抑えようと、戸口で奮闘してみた。しかし、騒ぎは大きくなる一方だ。
やっと岡っ引きが走ってきたのは、それからしばらくしたころだった。目がきょろりとした岡っ引きを先導するのは一羽の烏だ。優秀な案内者は、いつのまにか豆のとなりに立っていた二枚目妖怪の肩にとまる。
「ったく、朝からなんなんだよ。烏に起こされるなんざ、妙な気分だし。それになに、この騒ぎ? なんかあったのかい?」
「お勤めご苦労さまです。どうぞ中へ」
ぶつぶつ言う岡っ引きに、豆は細く戸を開いてみせた。やっとこれで帰れると安堵する豆とはちがい、岡っ引きの顔はみるみる青くなる。
「……し、死んでる! こりゃ惨い。ていうか、あんただれ」
「豆腐売りの豆と申します」
「豆腐売りぃ? そんななりで?」
岡っ引きが声をひっくり返し、豆の頭からつま先までをじろじろと眺めた。
着流し姿は、たしかに豆腐売りには珍しい装いだ。たいていの豆腐売りは着物の裾をからげて股引を履く商売人の装いだった。だが馴染みの女客たちが「優男の豆さんにああいう装いは似合わないよ」と言うため、いつも着流し姿で商売している。
そんな事情を知らない岡っ引きは不思議そうだったが、深掘りするのはやめたらしい。
「殺しかあ、面倒だなあ」
部屋の中をおそるおそる覗き見ている。役人なら堂々と入って検めればいいだろうに……などと豆が思っていると、岡っ引きと目が合った。
「あ、わかった! おまえが下手人だな!」
一瞬、なにを言われたのかわからなかった。
「……あの、すみません、なんの話ですか」
豆が困惑する横で、岡っ引きは気にする様子もなくひとりでうなずく。
「こういうときは最初に仏さんを見つけたやつを疑えと言われてるんだよ。それにこんな早朝に豆腐売りが骸を見つけるなんて、いかにも怪しい!」
「なんでそうなるんです。俺はただ商売に来ただけです。それに骸を見つけたのは、彼だって同じですし――」
助けを求めて、というより、ひとまず疑いの目を分散させようと横を見た。
だが――、男がいない。あの美丈夫が一瞬で、影も形もなくなっている。
嘘だろう。まさか、逃げたか。
「彼? だれもいないじゃないか! おかしなこと言って、やっぱりおまえが殺したんだな!」
「ち、ちがいますって!」
日も昇れば江戸の夏は一気に厳しい暑さとなる。それなのに頬に冷や汗が伝った。
岡っ引きは町奉行所の手先として働く民草の人間だ。しかし悪には悪をということか、ならず者が担っていることもあって評判が悪いと聞く。
「俺ではありません。まずは落ち着いて話を」
「問答無用! 抵抗するなら容赦せん!」
ああ、まずい。
岡っ引きが懐から十手をふりかざす。人垣から叫び声が上がるのを聞きながら、豆は華麗に足を引いてよける――ことができるはずもなく、まともに十手をくらった。
がつんとした衝撃に襲われ、視界に火花が散る。
――ああもう、今日は厄日か。
豆腐小僧の豆は身体が豆腐のように柔だ。無論、喧嘩など苦手中の苦手だった。情けないことに、豆の意識はあっというまになくなった。




