3 舟の上にて
「寧々さん、鬼女も真っ青な貫禄でしたね」
夜道を照らすのは月と手元の提灯の灯りだけ。店を出た豆と朔夜は、大川沿いを歩いていた。妙に疲れたし、二膳も食べた腹は重い。夕餉を食べに行っただけなのに、あんな場面に巻き込まれるとは思わなかった。
「彼女の料理、食べてあげればいいじゃないですか。そうすれば、あんな騒動にはならなかったでしょう」
「そりゃ、無理だな」
あっさりと却下する朔夜に首を傾げた。改めて考えてみると、手料理を食べてほしいという相手の想いを無下にするのは朔夜らしくないように思えた。まあ、そう言い切れるほどに彼と親しいわけではないけれど。
「そういえば、朔夜さんがものを食べているところを見たことがないですね。ものすごく好き嫌いが激しいとかですか?」
「ちがう。そんな子どもみたいなことしねえよ」
ため息をつきながら遠くを見つめた朔夜は、すこししてから言った。
「あれな、俺の膳だけ毒が入ってるんだ」
ふたりの間にぬるい風が吹き抜けた。
……毒?
目をまたたく豆に、朔夜が呟く。
「一度お寧々の料理を食べて気分が悪くなったことがあってな。調べたら盛られてたってことがわかったんだよ」
「な……、なんですかそれ!」
思わず声を上げる豆に苦笑を向けて、朔夜は道をそれると土手をおりていった。慌てて追いかけると、小さな舟着き場がある。江戸の町を縫うように渡された川は、人も道具も運んだ。舟着き場も各所にあるのだ。
夏は蛍の季節。舟遊びをする者も多いからか、この時間でも船頭がいた。朔夜は一言二言船頭と話して舟を借り、豆を手招く。二人が乗った舟は夜の闇へと漕ぎ出した。
「なんて言うのかな、お寧々は気が強いうえに、色恋に熱心な娘なんだ。かっとなると手がつけられない。前のあいつの連れなんて、浮気がばれてこの川に落とされたらしいぞ」
真っ暗な川を指さした朔夜が「しかも冬に」とつけ加えるものだから、豆は頬が引きつった。
「それは……、大変なことですね」
寧々のあの鬼女真っ青な姿。連れ合いを川に落とすことも……なくはないかもしれない。冬の川に落とされたら、下手をすると死ぬだろうに。浮気するほうもどうかと思うが。
「それで? どうして朔夜さんが毒を盛られることになるんです?」
「それがなあ」
戸惑いがちに朔夜が空を見上げると、ささやかな水の音が場を満たした。すこしして、言いづらそうに口を開く。
「お寧々には、好意を持たれているらしいんだ。一度、直接伝えられたこともある」
「おや、自慢話で」
「そんなんじゃねえって」
月明かりを受ける朔夜の頬は白く滑らかで、目元は涼しげ、文句なしに端正な顔立ちなのだから、町の女たちに懸想されるのも無理はない。
河岸のほうで蛍が光った。豆はその光を眺める。
「で、あなたはどう応えたんですか」
「断った。寧々のことは嫌いじゃないが、そういう目では見てないからな。……っていうやり取りのあと、毒を盛られた」
「……なるほど。手に入らないなら殺してしまえ、ということですか」
過激だ。だが、朔夜の話を聞いていると、あの娘ならやりかねないのではと思えてくる。
「朔夜さん、そんなことがあったのに、よく店に通いつづけられますね。しかも俺まで誘って。俺、お代わりまでしてしまいましたけど」
「毒が入ってるのは俺の膳だけだ。豆は大丈夫。美味かっただろ?」
それはそうだが、そういう問題だろうか。
朔夜は真っ暗な水面に指を浸した。水上の月が歪にふるえる。
「あそこの親父さん、急に倒れてな。すこし前まではぴんぴんしてたのに……。それからお寧々は縁談の話も先延ばしにして、熱心に店を切り盛りしてるんだ。根はいいやつなんだよ。うまい飯もつくるし」
「……朔夜さんは甘いですね」
「懐が深いって言ってくれ。まあ、毒を盛られたって言っても俺はこのとおり無事だし、そもそもそんなに強い毒でもなかったから、あいつを罪に問うつもりはない。百鬼夜行の若大将っていうのも、結構大変なんだ。俺のことを気に食わないと思う輩もいるからな。謀殺だなんだなんてのをいちいち気にしていても仕方ねえよ」
……それは気にしたほうがいいのでは?
そう思うが、豆は黙っていた。
朔夜が空を仰ぐ。
「とはいえ、寧々をこのまま野放しにってわけにもいかない。どうにか穏便に俺のことを諦めさせたいところだ」
と言った朔夜は豆に視線を送ってきた。
「……あの、なぜ俺を見るんです」
「はは、なんでだと思う?」
笑う朔夜に、なんだろう、嫌な予感がした。残念なことに、そういう予感はたいてい当たるものだ。朔夜がぱんと顔の前で手を合わせ、豆を拝む。
「豆、こういうの得意だろ? うまくお寧々を言いくるめてくれないか」
「なんですかそれ。嫌ですよ」
顔を歪めた豆は即答した。他人の恋路に首を突っ込むなんて、面倒ごとになること請け合いだ。