2 夕餉の騒ぎ
提灯の灯りに彩られた通りに並ぶ店は、食事処ばかりだ。
眠そうにあくびをしていた琥太郎は百鬼の屋敷に預けてきた。ついでに紅葉豆腐も置いてきたため、豆はいつもより身軽な恰好で夜道を歩いている。さすがに夕餉に行くのに豆腐を持っていても仕方がない。
「高そうな店ばかりですね。ここでなら、俺の豆腐も高値で買ってもらえそうだ」
「商売熱心なことで。ほら、この店だ」
朔夜は通りの端にある店の暖簾をくぐる。座敷に四卓の机が置かれた店は手狭だが、中は賑わっていた。客はみな陽気に笑って夕餉の膳と酒を楽しんでいる。
「あ、朔夜さん! いらっしゃい!」
厨のほうで忙しく働いていた娘が、ぱっと頬を染めた。一八、九くらいだろう。結い上げた髪には艶があり、つり目がちの瞳が目を引いた。
「お寧々、邪魔するぞ」
「邪魔だなんてとんでもない。朔夜さんならいくらでも歓迎よ。もっとたくさん来てほしいくらいなんだから! ……あ、そちらはお友だち?」
熱っぽい視線を朔夜に向けたあと、娘は豆を見て首を傾げた。
「こいつにうまいもん食わせてやってくれ。俺は腹減ってないから、豆の分だけ頼む」
てっきり一緒に食べるものだと思っていた豆は驚いた。一方で、寧々と呼ばれた娘は「また?」とふてくされる。
「朔夜さんってば、最近そればっかり……。まあいいわ、座って! お客さんいっぱいだから相席だけど、いいでしょう?」
気を取り直したのか、にっこりと微笑んで席に案内してくれる。一番奥の卓にいた客が詰めて座り、豆たちの場所を開けた。去り際にもう一度朔夜へ笑顔を向けた寧々を見て、豆は呟く。
「さすがの色男ですね」
寧々が朔夜に好意を持っていることは明らかだろう。愛らしい娘だったから、もしかしたら朔夜もまんざらでもないのかもしれない。惚気られたら困るな……。そう思いながら朔夜を見た。だが、彼の態度は妙だった。
「お寧々は、ちょっとなあ……。ま、今日は奢ってやるから、好きなだけ食え」
――なんだろう。歯切れが悪いうえ、雑に話をそらされた気がする。
しかし人の恋路に首を突っ込むのは野暮だろう。豆は黙っておくことにした。
「ここの飯はうまいから、豆でもたくさん食いたくなるはずだ」
そう言われて、店を見回す。
「人気なのは間違いないようですね。俺たち以外にも妖怪が紛れているようです」
「へえ。そうかい。相変わらず豆は妖気に敏いな。俺にはわからんが、繁盛してるならいいことだ」
そこに十歳くらいの小僧が茶を持ってきた。好奇心が強そうな瞳で豆と朔夜を見る。だが豆と目が合うとびくっと肩を揺らして、湯吞みを置くや厨に引っ込んだ。それでも、ちらちらと陰からこちらを気にしている。
丁稚奉公の小僧だろう。江戸の子どもは七歳で寺子屋に入って学び、十歳で丁稚として奉公に出る者が多い。
だが。
豆はじっと少年を見つめた。
かすかに妖気があった。
――客ではなく、働き手のほうだったか。
「茶吉ってば落ち着きないんだから。ごめんなさいね、ふたりとも」
小僧と入れ替わりに、寧々が小鉢を持って歩いてくる。
「はいどうぞ、まずは茄子のおひたし。膳もすぐ持ってきますから。父が身体を壊してから、あたしと茶吉で店を回しているんだけど、もう、茶吉ってせっかちなのが直らなくって」
「おふたりで店を?」
「ええ」
寧々がふっと目を伏せた。
「父さん、最近は床から起き上がることもできないみたいだから」
よほど心配なのか声が深く沈んだものの、彼女は首をふってまた笑う。
「これまでは父ひとりで店を営んでいるようなものだったんです。あたしと茶吉だけになってからは大変でしたけど、いまじゃ女将も板についてきたんですよ。あ、茶吉ー、あちらのお客さんにお茶のお代わり持ってきて」
「うん……!」
ふたりの様子は微笑ましかった。強い娘だ。少年も寧々と仲がよさそうだった。妖怪が人の世で働くことは珍しくはない。豆だって豆腐売りとして人間のふりをしているわけだから、同じ立場としてこっそりと少年を応援することにした。
当の少年は、そんな豆の視線に気づいたのかびくっとしてしまったが。
申し訳ない、なんて思っているうちに、黙って話を聞いていた朔夜が眉をひそめた。
「お寧々、縁談の話はどうなったんだ? 嫁に行くときまでには親父さんも元気になってないと困るだろ。いい医者紹介しようか」
異変はそこで起こった。
――え。
茶を飲んでいた豆はぴたりと固まる。
寧々の顔から急に笑顔が消えていくのが見えたのだ。かと思えば、みるみるうちに彼女の顔が真っ赤になって、大きな瞳に涙の膜が張る。
「……ひどい。朔夜さんにだけは、縁談の話なんてされたくなかったのに! あんなの父が勝手に決めたことよ! あたしは認めてない!」
わっと叫ぶやいなや、厨に逃げ込んでしまった。まわりの客がなにごとかとこちらを見る。朔夜が居心地悪そうに肩をすくめるものだから、唖然としていた豆もなんとなく状況を察して、ため息をついた。
「もうすこし女心を察してあげたほうがよいのでは? あなた、彼女の気持ちがわからないほど鈍感というわけではないでしょう」
「そりゃ、わかってるよ。だがお寧々はなあ……」
またしても歯切れが悪い。いったいなんなのだろう。気にはなったが、注目を集めている中で問い詰めるのも気が引けた。あとで聞きだそうと黙って茶を飲んでいると、しばらくして寧々が膳を持ってきた。まだ不機嫌そうだが、仕事だからと気持ちを切り替えたらしい。
膳には艶々と輝く白米に、味噌汁。たっぷりと味噌の乗った田楽に、鯵の酢締め、梅干し、胡瓜の漬物と、たっぷり載っている。しかし、なぜだか膳はふたつ。朔夜がため息をついた。
「また勝手に俺の分まで……、豆のだけでいいって言ったろう」
「ええ、聞きましたよ。だから朔夜さんのお代はいらないわ。あたしが朔夜さんに食べてほしいだけだから」
寧々は手早く膳を置くと、それ以上朔夜がなにかを言う前に背を向けた。朔夜は困り顔でひらひらと手をふる。
「豆は遠慮せず食べるといい。味は保証する」
「はあ……、いただきます」
その言葉どおり、料理はすべて美味しかった。この状況でなければもっと美味しかっただろうに。
「朔夜さん、そんなに腹が減っていませんか?」
豆が食べている間も、朔夜は一口も膳に手をつけなかった。また「俺の分も食べろ」と言われるのではと身構えたが、今日の朔夜は煮え切らない返事をしながら脚を組んで座っているだけだった。やはり妙な態度だ。
豆はなんともすっきりしない気持ちで湯吞みを傾ける。
ふと、となりに座っていた男がひょいと朔夜の膳に手を伸ばしてきた。
「なんだ兄ちゃん、いらないなら俺におくれよ」
男の息が酒臭い。豆は一瞬眉をひそめたが、このまま残すよりは食べてもらったほうがいいかと思い直して、男の好きにさせることにした――が。
「やめて!」
男が手をつけるよりも早く、派手な音を立てて膳が転がった。一瞬で店内が静まり返った。からからと椀が転がる音だけが響く。豆は目をまたたき、ゆっくりと目線を上げる。
寧々がいた。駆けてきた彼女が朔夜の膳をひっくり返し、客の男を睨んでいるのだ。その激しい瞳に豆はぎょっとした。睨まれた男も固まっている。冷や汗がひと粒だけ彼の頬を伝った。
客たち全員の目が寧々に向く中、彼女は瞳の熱に反して氷のような声で言う。
「それは朔夜さんに食べてほしくてつくったものだから。触らないで」
男が緊張で喉を鳴らす音すら聞こえてきそうなほどの静寂だった。豆もまた、呆気にとられて寧々を見つめる。しかし、ふと気になって朔夜を見た。目が合うなり、朔夜は無言で「頼む」と訴えてくる。
……なにを頼んでいるつもりだ、この男。
しばらく見つめあって、豆はそっとため息をついた。
ああもう、仕方がない。
「あの、寧々さん、あなたの料理、とても美味しかったです」
用心に用心を重ね、できる限りの優しい声で豆が言う。ふり向いた寧々に、優男渾身の笑みを向けた。
「お代わりをいただいてもいいでしょうか? 普段は食が細いんですが、今日はもう一膳食べられそうです」
「……ほんとに? 美味しかった?」
笑顔でうなずくと、吊り上がっていた彼女の瞳が、すう、と落ち着いていくのがわかった。やがて、その顔にも笑みが浮かぶ。
「ありがとうございます。お客さんが笑って美味しいって言ってくれるのが一番幸せ」
その心は豆腐売りの豆にもわかるのだが、内心頬が引きつるのは止められなかった。




