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1 長屋の死体

 この裏長屋は江戸によくある間口が一間半、奥行きが二間のひとり住まいの部屋が並んでいる建物だ。狭い部屋にある骸は、どうやっても目に入る。


 血濡れの女――、その光景から、豆は己の母を思い出していた。


 血に濡れた、母の姿を。


 そんなものは幻でしかないし、いまさらだともわかっているのに――。


 思考に沈み、豆が目を伏せたときだった。


「ひどいもんだな」


 突然声がして、豆は跳ねるようにふり返る。


 いつのまにか、男がひとり戸口にもたれて立っていた。思わず息を呑む。十八を過ぎたあたり、豆と同じような年ごろだろう。だがその立ち姿から目が逸らせなかった。


 藍の着物は品のよさをうかがわせるし、腰に下げた刀もすらりと美しく、彼の装いに華を添えている。黒々とした短い髪は結わずにおろされていた。江戸でもそうそうお目にかかれないような美丈夫だ。


 しかし、なんだろう。


 この顔、どこかで見たことがあるような気がする。


「顔色が悪いな。外に出たらどうだ?」


 男は気遣うような眼差しでそう言った。


「え。……ああ、ご心配ありがとうございます。すこし匂いにあてられただけですよ」


 地味な着流しに、ゆるく紐でまとめた長い髪。それに加えて豆は身体もほっそりとしているから、遠くから見れば女のようにも見える優男とよく言われた。その評にはなんとなく悔しいものがあるのだが、ともかく目の前の男もそう思って心配してくれたらしい。


「匂いねえ」


 男は切れ長の瞳を細め、部屋の奥で倒れた女を見やる。


「俺も通りすがりに血の匂いがしたんで、気になって覗きに来たんだ。あんたも同じってことだな」


 その言葉の意味を考える。


 同じ――、匂いに気づいてここにいることが。


 それから。


「なるほど。あなたも妖怪なんですね」


 豆が言うと、意外そうな目を向けられた。


「当たり。よくわかったな」

「妖気を読むのは得意なので。……あなたの妖気は、わかりにくいですが」


 どんな妖怪でもすくなからずの妖気を放っている。江戸の町に住む妖怪はうまく妖気を抑える者が多いが、豆はそのほとんどを見抜くことができた。唯一の特技だ。


 とはいえ、そんな豆でも気づくのが遅れるほど、目の前の男は妖気が薄い。


 妖怪として弱い……というようには見えない。むしろ気配をうまく隠せるほど手練れの妖怪の線が濃いと思う。だとしたらあまり関わりたくない相手だった。


 豆は妖怪が苦手だ。強い妖怪はとくに。


 と、思案している間に、男は(かまち)に足をかけた。


「あ、なにしてるんですか。勝手に上がるのはまずいのでは?」


 あわてて男の袂を掴むと、面倒そうに顔をしかめられる。


「なんだよ。家主に許可でも取れってか? もう死んでるみたいだが」

「そうではなく。人死にならば、お役人を呼ばないと。勝手に現場を荒らして、あとで役人から小言を浴びせられるのは御免ですよ。それに人には人の始末のつけ方があるでしょうし。俺たち妖怪が出しゃばるのは……」

「あんた、真面目だな。妖怪にしては珍しいよ」


 呆れとも感心ともつかない表情が男の顔に浮かび、豆は顔をしかめる。そんな様子を見て、彼はなだめるように言った。


「まあ俺も、人の世の領分に首突っ込む気なんてないから安心しな」

「……と言いつつ、首を突っ込む気が満々に見えますが」


 框から足をどける気がなさそうだ。


「いや、首というか、足を突っ込む気が多少あるだけだ。心配するな。さっき烏を飛ばしておいたから、じきに役人も来るはずだ。それに、ちょっとくらい骸に触れたところで人間は気づかねえよ。あいつら、鈍感だから」

「……そういうものですか」

「そういうもんだ。それより、こっちの赤子、見てみろ」


 豆をあしらって女のそばに膝を折り、赤子をつつく。赤子が小さく身じろぎをしたから、豆は驚いた。


「生きているんですか、その子」

「みたいだな。穏やかに眠ってる。こんな状況なのに、たいしたもんだ」

「……じゃあ、その血は?」

「全部、女のもんってことだろ」


 赤子に怪我はなさそうだった。血塗れになりながら眠っている赤子は、たしかにのんきなものだ。生きているならそれに勝るものはない。けれど、死んだ母に抱かれていることを思うと喜んでいいのかわからない。


 豆は赤子から視線を上げた。


 文机に折り鶴があるのが目についた。鶴のほかにも、やっこや兜など、すべてがふたつずつつくられている。こと切れている女がつくったのだろう。折り鶴のひとつは潰れていた。赤子の無邪気な平手にでも襲われたのかもしれない。


「美人が台無しだ。ひどいことしやがる」


 男の声にそちらを見ると、忘れかけていた血の匂いがまた鼻をついた。女のほうは赤子とちがい、穏やかさの欠片もない姿だ。


「喰われていますね」


 首元や腕の肉がそげている。ひとつひとつは大きな痕ではないが何度もかじられたようでおぞましい痕跡になっている。白い肌だから、余計に惨い。さすがにこれはと豆は女の衣を整えて傷口を隠してやった。これくらいなら、役人も咎めはしないだろう。


「めちゃくちゃな喰い方だな。獣でもいたのかねえ」


 男のつぶやきに、豆は戸口をふり返る。


 改めて部屋を見回した。


「ああ……。ちがいますね」


 わずかな気配があった。


 獣でもなく人でもない、そんな気配が。


「――すみません、前言撤回します」

「あ?」


「役人は呼ばなくてもよかったかもしれません。下手人は、妖怪のようです」

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