9 その後
豆が次に目覚めたのは昼。百鬼夜行の座敷だった。
琥太郎にかじられた足には真新しい布が巻いてあった。百鬼の妖怪たちが改めて手当をしてくれたのだろう――と推測するしかないのは、琥太郎の件が一段落したあと豆が気を失ったからだ。やはり豆腐小僧は弱かった。
「お。やっと起きたか、豆」
突然声がして、豆はびくっと肩を震わせる。
「朔夜さん、いつからそこに……。気配を消して近づくのはやめてください」
「そういう妖怪なのさ。諦めてくれ」
朔夜が笑って、豆のとなりに腰をおろす。豆が寝汗をかいているのに比べて、朔夜はこの暑さでも白い肌に汗ひとつ浮かべていなかった。涼しげな目を豆に向けてくるから少々癪だ。
「具合はどうだ」
「昨日よりはましです。お手間をかけました。……琥太郎も、落ち着いているようですね」
朔夜の腕には寝息を立てた琥太郎がいた。いまは角も妖気もない。夜のことがまざまざと思い出された。
無垢な寝顔のこの赤子が、人を襲った。自分の母を。琥太郎はこれからどうやって生きていくのだろうか。そんな豆の気持ちを察したように、朔夜が言う。
「琥太郎は引きつづき、うちで面倒を見ることになったよ。……なんだ、その顔。意外か?」
「え、ええ。いいんですか? 百鬼の子どもも襲われたのに」
てっきり追い出されるだろうと思っていたのだ。戸惑う豆に、朔夜はひょいと肩を上げた。
「昨日も言ったが、いまは罪に問うべきじゃないからな。そのときが来るまで世話をして待つことにしたんだ。このまま放り出しても、また人死にが出るだろうしな。あ、安心しろ。虐げるようなことはしないから。ちゃんと面倒を見るさ」
琥太郎を抱く彼の仕草が、言葉に嘘のないことを示していた。器が大きいということかもしれない。朔夜も、百鬼の妖怪たちも。
「襲われた子どもは起きましたか?」
「いや。だが、そのうち起きるだろう。問題ないさ、うちの妖怪はやわじゃない。――それはそうと、豆」
朔夜がふいに咎めるような口調に変じた。
「突っ走るなよ。ちゃんと話を聞いてれば、そんな怪我もしなくて済んだんだぞ」
「……すみません」
昨日、朔夜を呼びに来た童女の「こたちゃんが!」という訴えを聞き、豆は「琥太郎が襲われた」のだと思った。だが実際は「琥太郎が襲ってきた」の意味だったらしい。
琥太郎が我を失う前のことだ。子どもたちが刀で遊んでいたところ、少年があやまって腕に傷をつくった。その血の匂いにあてられて、琥太郎は鬼になったのだ。
百鬼の妖怪たちもその事実を把握していたようだが、若大将が連れてきた赤子ということもあって勝手に捕らえるのも気が引け、ひとまず朔夜を待つことにした。そこへ豆たちが駆けつけ、ろくに話も聞かなかった豆が早とちりした――、と。
朔夜のじとりとした目がいたたまれず、豆は目をそらした。
「……琥太郎に怪我はなかったんですか」
「ああ。そっちも無事だ。だが豆は怪我が治るまで琥太郎に近づくなよ。血の匂いでまた暴走するかもしれないからな。――それはそうと、琥太郎の母親なんだが」
赤子を抱え直した朔夜が、声の調子を変える。
「うちの連中にも探らせてるのに身元がつかめないままだ。しかしまあ鬼と通じていたってんだから、隠れるように過ごしていたのも納得だな。妖怪との間に設けた子どもなんて疎まれるのは目に見えている」
……たしかにそうかもしれない。半妖は、異端だから。
朔夜の腕の中で眠る琥太郎は、その手にまだ簪を握っていた。きっと母を求めているのだろう。その母の素性がわからないのは不憫に思えた。だからこそ朔夜も調べているのだろうけれど。
「身元は掴めないし、よりによって父親は鬼ときた。探るのも一苦労さ」
「鬼ですもんね。友好的な種族ではないと聞いています」
「ああ、そうなんだよ。困りもんだ」
「――なるほど。半妖の上に鬼か。朔夜、厄介なもん連れてきたじゃねえか」
「本当にな……、あ?」
「え?」
豆と朔夜は顔を見合わせる。ふたりのものではない声があったからだ。だれの声、と思った瞬間、朔夜の身体が部屋の奥へと吹き飛んだ。
「さ、朔夜さん……!」
朔夜の腕から宙に放り出された琥太郎を、突然現れた新しい男が受け止める。豆からは背中しか見えない。
だれだ。朔夜は無事か。琥太郎も。
立ち上がろうとした豆だったが、急に息ができなくなって夜具に崩れ落ちた。上から抑え込まれているような圧があった。妖気の塊だ。昨日の朔夜と同じような妖気。だが、もっと濃くて重い。
「朔夜。おまえが連れてきた赤子のせいで、百鬼の妖怪が怪我をしたこと、忘れるんじゃねえぞ。若大将なら、もっと自分の行いに気をつけな」
低く鋭い声が耳を刺す。豆は目だけを動かして、声の主を見た。男もこちらを見る気配があった。おっと、と男が笑う。
「悪いなお豆。とばっちり喰らわせちまった」
「……え?」
急に息ができるようになった豆は、男を真正面から見て、また息が止まりそうになる。涼しげな黒い瞳に、心地よく響く声。一度見たら忘れられないような美しい容貌の男が立っていた。しかしこの男、どこかで。
――あ。
知っている、この男を。
「や、柳の旦那……?」
「親父! いきなりなにしやがる!」
「え?」
「あ?」
ふたたび朔夜と顔を見合わせた。