8-3 襲来
朔夜が、未だに呆然と固まっている赤子へ視線を移した。
「そうだろうな。赤子といえど鬼だ。女や子どもには、鬼を抑える力はない。死ぬのも無理ないさ」
「どうしてそんなことに。親子なのに」
「さあ、詳しい事情は知らねえよ。だが、死んだ女は人間で、琥太郎は人食い鬼だ。鬼が人間を殺すって話なら、そう珍しくもないだろう」
朔夜の瞳に、暗い色が落ちる。
「人食い鬼は、血肉を与えないと飢えて暴れることもあるんだ。理性があれば抑えることもできるようだが、赤子じゃ無理だな」
「……それで、琥太郎は自分の親を喰ったんですか」
信じたくない話だった。だが琥太郎に襲われた豆の足はいまも痛んで、血を流しつづけている。その痛みが、琥太郎のしたことを現実のものとして感じさせる。豆の肌をなんなく裂いた歯ならば、人間の女を喰うことも容易いだろう。
「ひでえ傷だな。足貸しな」
朔夜がかがみ、豆の足に手ぬぐいを巻きつけていく。荒事に慣れているからか、手際がよかった。そんな様子を豆はぼんやりと見ていた。頭には死んだ女の姿が張り付いている。
「赤子の暴走には、殺意も悪気もなかったんだろう」
手を止めることなく、朔夜がつぶやいた。
「それでも、人が死んだ事実は消えやしない。うちの妖怪が襲われたこともな」
豆は琥太郎に視線を向ける。赤子と目が合った。丸い瞳に、水の膜が張り、すぐさまあふれた。先ほどまでのうめきとはちがう。悲痛な泣き声が部屋に轟く。
「正気にもどったか」
小さな手が、抱きしめて守ってくれと言わんばかりに豆に伸びた。だがふたりの間に朔夜が立つ。
「また血の匂いにあてられても厄介だ。豆に近づいてもらっちゃ困る」
琥太郎の伸ばした腕が空を掴み、いっそう赤子の泣き声が増した。豆はその声を聞きながら、目を伏せる。きっとだれよりも近くにいてその手を掴むはずだった人間は、琥太郎の母親だったのだろう。それなのに、琥太郎自身が殺してしまったのだ。
人殺し。親殺し。
大きすぎる罪だ。お咎めなしで済ませていいものではない。
――でもまだ、琥太郎は赤子だ。
善悪の判断もつかないような、ほんの赤子なのだ。
豆は片脚を引きずって、琥太郎に歩み寄った。
「豆」
「……大丈夫です」
そっと、玉のような涙をこぼす琥太郎を抱き上げる。小さな手が豆の衣を掴んだ。嗚咽が一度止まり、また堰を切ったように泣き叫ぶ。すがりついてくる手のやわらかさに、やるせない想いがした。こんな赤子の身体に罪がのっているなんて。
それでもいまは泣きやんでほしくて、琥太郎の背をなでた。
そうしてふと、思い出す。
長屋で琥太郎を見つけたとき、琥太郎は女の腕に抱かれて眠っていた。きっと琥太郎だけでも下手人から守ろうとして女が必死にそうしたのだと思っていたが、ちがったのかもしれない。なにせ下手人は琥太郎自身だ。
自分を噛み殺そうとする琥太郎を抱きしめていた女は、なにを考えていたのだろう。恐ろしくはなかったのだろうか。
もしかしたら彼女もまた、豆のように琥太郎を憐れに思ったのかもしれない。
抱きしめて背中をさすっていたのか、正気にもどってほしいと願っていたのか。
殺されそうになりながら、それでも逃げずに琥太郎を抱いて、なにを思ったのだろう。
豆は琥太郎の背をなでつづけた。そうしているうちに琥太郎の声は小さくなって、すうっと穏やかな寝息に変わっていった。黙って成り行きを見守っていた朔夜が、呆れたように言う。
「また喰われても知らねえぞ」
「すみません」
ため息をつく朔夜が、琥太郎を見下ろした。
「いずれ琥太郎は、自分がしたことに向き合うときがくるだろう。だがいまは……そのときじゃないのかもしれないな」
懐から珊瑚の簪を取り出した朔夜が小さく呟く。
「ほんの赤子だ。なにをするにも幼すぎる」
簪を琥太郎の近くに持っていくと、眠っているはずの琥太郎が小さな手で簪を握りしめた。