夜明けの一幕
夜明け前の、空にうっすらと光が差し込むころ――。
長屋の通りをひとり歩いていた豆は、甘い匂いに気づいて足を止めた。担いだ天秤棒についた桶の中で豆腐と水とがかすかに揺れあい音を立てる。だが音といえばそれだけだった。あたりは静かなもので、凪いだ池のようにしんとしている。
それでも、匂いはあった。
花の香りにも似て、しかし粘着質なようでもある、厄介ごとの予感が漂う匂いが。
――どうしようか。
見て見ぬふりをするほど、豆は薄情ではなかった。――かといって、進んで首を突っ込むほど無鉄砲でもないから、ためらいがちに天秤棒をおろす。
「……もし。どなたかいらっしゃいますか」
呼びかけにはなんの返答もなかった。
試しに戸へ手をかければ、あっけなく開いてしまう。迷ってから、再び声をかけた。
「早朝に失礼いたします。豆腐売りの豆と申しますが。どなたか――」
恐る恐る足を踏み入れた豆は、中の様子を見るなり言葉を失った。
畳も夜具も、赤く染まっていた。
真夏の只中に、咲くはずのない彼岸花が畳の上に群れて咲いている――そんな夢とも幻ともつかない風情のある光景だった。その中心に、赤子を抱いた女が倒れている。流れ出た血の色だけが鮮やかだ。その赤とは対照的に、彼女の顔はぞっとするほど白い。
甘い匂いがさらに鼻をつき、眩暈がした。
豆腐売り――否、豆腐小僧である豆に、血の匂いは甘すぎる。