ストーカーですか?
地下鉄に乗り、一人暮らしのアパートへ走って帰った麻衣は、リビングのソファに倒れ込んだ。
八畳のワンルームに猫グッズがたくさん詰まっている。
ソファに置いていた猫型クッションを引き寄せて顔をうずめた麻衣は、はあーと大きな溜息を吐いた。
「なにあれ、信じられない。プロポーズとか噓でしょ⁉」
ああ、やっぱり猫は癒される。
猫好きなのに猫アレルギーで飼えない麻衣は、猫の代役のクッションをぎゅうぎゅうに抱きしめた。
お兄様はからかっているの?
でも、何だか最後は涙目になっていたような……
いやいや、でも、ないわー
前世でお兄様よ?今世では初対面だし、何考えてるの⁉
そりゃ、顔は良いし、エリートだし、紳士だけども……
いや、ポジティブな点ばかりあげちゃダメだ。
話は聞かないし、強引だし、えーとえーと……
あら?悪口が続かないわ……⁉
いや、でも待って。とっておきのがあるじゃない!
麻衣は嫌な記憶をほじくり出した。
それは前世で、妹のミュリアーナに三回も婚約者を奪われた思い出だった。
愛らしい一つ下の妹、ミュリアーナ。
家族に溺愛され、自分もまた妹を可愛がっていた。
ところがーー
一人目の婚約者は同じ侯爵家の同じ年のヴィクトルだ。
だが、ミュリアーナと両想いになったと婚約解消され、泣く泣く従った。
二人目は伯爵家の五つ年上のオーギュストだ。
またもヴィクトルと別れたミュリアーナと恋仲になり、仕方なく婚約解消した。
三人目は子爵家の十歳年上のレナートだった。
今度こそと思ったら、オーギュストと二股かけたミュリアーナと騒動になり、かなりなスキャンダルとなって婚約が霧散した。
散々な目に合った私が妹を叱ったら、何と、両親やお兄様が妹をかばって、その甘やかしぶりに唖然としたのだ。
悪気はないからとか、相手に誘惑されたとか言っていたが、さすがに三回もはおかしいでしょう。
貞操観念はどうなってるんだ。
修道院に入れたほうが良いのではと言ったら、逆にマリエールが修道院送りになった。
なるほど、家族は被害者であるマリエールより、加害者のミュリアーナを守ることを選んだわけだ。
家族が敵になったマリエールは、その後、修道院で短い生涯を終える。
最後まで家族はマリエールを迎えに来なかったし、謝罪もなかった。
あんな辛い思いをしたのに、ひょっこり現れて、結婚してくれ?
二百年経ったとしても、謝罪もなしに言えるセリフじゃないし、何の冗談なのか、笑えて来る。
お兄様なんか、ヴィクトルと一緒に『ミュリアーナが可愛いから仕方ないじゃないか』って妹をかばってたのよね。
可愛くなくて悪かったわね、本当に、無神経で酷い言い草だわ!
……あっ、思い出すと、ふつふつと怒りがぶり返してくる……!
しかし、面倒な事になったなあ……
冷静になってきた麻衣はソファに座り直した。
中身がお兄様とはいえ、部長は部長だ。
明日の出勤、嫌だなあ。
まあ、いっか。人目もあるし、みんなのいる前では何もしてこないよね?
あとは無視よ無視。
頭を切り替えた麻衣は、深く考えずに着替えて夕食を作るために台所に移動した。
*
「……今日の敷島部長、どうしたのかしら?今夜デートでもするの?明日は休みだもんね」
いつにも増してバリバリ仕事をこなしている部長に、フロア内の女性陣の眼が吸い寄せられている。
山積みだった書類が目に見えて片付いていく様は圧巻で、部長の気合が見てとれた。
「仕事してる部長って素敵。いつもカッコイイけど、出来る男って感じするよね」
小さく聞こえてくる部長への賛辞に、麻衣はおっ、と思った。
ーー皆さん、部長は結婚願望が高まってますよ! 誘うなら今ですよ!
本当に、お兄様なら女性を選び放題なのに、何故私なんかに声をかけたのやら。
やれやれと頭を振った麻衣は、昨日の事が嘘みたいに何事もなく過ごす部長を生ぬるく見守った。
こうして見ていても、前世でもそうだったが、お兄様は常に目立つ位置にいて、他人から賛辞を受けるのが当たり前みたいな人だった。
アカデミーでは首席、スポーツは優勝、絵画も楽器も巧く、いつも人に囲まれて、眩しく華やかでキラキラ輝いていて、トップが似合う。
片や自分は前世でも今世でも、顔も成績も、何をしても中くらい。平凡で突出したものがない。
この会社も、正社員でなく派遣社員で入社している。
彼氏はここと別の会社で、社会人になった年にできたが、半年で自然消滅してそのままだ。
多分、向こうはモテる人だったから、今頃結婚してるんだろうな。子供もいるかもしれない。
我ながらお兄様とは、住む世界が違うなと思う。
でも、ささやかな楽しみでも日々糧にして、頑張ってるんだから!
明日はお休みだから、コンビニスィーツを買って、帰ったら、猫動画見て癒されるんだ……!
好きなだけゴロゴロして、起きて猫動画見て、猫三昧するのよ。
お兄様は美人などなたかとデートを楽しまれればよろしいのよ、ふふっ
*
ーー甘かった。
「へえ、日本のコンビニってこんなに色々揃ってるのか。しかも安いな。ブラウニーは売ってないのか?おお、スナックも豊富なんだなあ」
楽しそうにコンビニの棚をチェックし出した部長に、麻衣は頭を抱えた。
会社から帰宅途中、地下鉄の駅に入る直前で後ろから来た部長に声を掛けられ、飛び上がって驚いたのがついさっきの事である。
どこかの美人とデートじゃなかったのか、と口走ったら、
「デート?マリーはデートがしたいのか?」と妙な勘違いをして上機嫌で手をつながれ、高級レストランに行くか尋ねられた。
とんでもない事である。
と言うか、部長はブランドスーツを着てるからいいが、私は着慣れたカジュアルブランドのブラウスとパンツ姿だ。ドレスチェックで引っ掛かること間違いなし。
いや、それより部長とディナーなんてできるわけない。
慌てて辞退して、家に帰ると宣言したら、勝手に部長がついて来た。
「部長、ついて来ても家に上げませんよ。なので早々にお帰り下さい」
「冷たいな。家族だろう?なあ、この旬の限定スィーツって旨そう。どれがオススメ?」
家族じゃない!
反論しても聞かない部長に呆れかえる。
答えないでいると、店員に話かけて、勧められるままスナックからスィーツから買い込んでいる。
店員はアジア系外国人のようだが、日本語が片言だったので英語で会話している。
くっ、何でもできるんだよなあ。悔しいけど、カッコイイなあ……!
ーーそうしてなんだかんだで部長は帰らず、長い間もめた末に、結局わが家へ上がり込んだのだった。