第5話 琥狼と名乗る男と悪魔
本来、悪魔というのは、字づらの印象とは違う。
自分を召喚した者の願いを聞き、叶える存在だ。
ただし、叶えるためには、その代償を払うことになる。
悪魔の名を騙れば、その報いを受けなければならない。
「気持ちの悪いことをされているんですね。男爵の長子さんとやら」
侮蔑した目でその息子を見る。この上なく吐き気が強く、殴り飛ばしたくなる。
「どうして平気にしている?」
「知りたいですか?」
口も鼻も押さえず、普通にしているのが不思議らしい。
教えるのもバカらし過ぎて、答える気がなくなる。
「まぁ、かまわん。そちらの仲間が心配ではないのか」
勝ち誇った男爵の息子は、縛り上げた2人の頬を棒で叩く。
反応しないことに気を良くしたのか、今度は平手で叩き、足で蹴り続けている。
『やめろ』と何度も目で睨め付けるように見据える。
怒りで体の中に、溢れ返りそうになる何かを無理矢理に押さえ込む。そして一度吸い込んでしまったものは、長い時間、体に影響をもたらすのかアルベルトが虚になりかけた目をじっとユズに向けている。
「…だめですよ。置いてなんていけません。大丈夫、すぐ助けます」
“自分達を置いていけ“と訴えかけていると感じると、ユズは逆に近付いていく。彼等を傷つけられたこと、そして、周りに意志を失くした人形の様な男達に。目は壁と同じガラス、ガラス玉をした女達に。押さえていた力の一端が弾ける。
パリーン。大きめの部屋のガラスの壁が砕け散った。
中にいた若い男が、今まで組み敷いた女を突き飛ばし部屋の端へ逃げ出している。女はされるがまま。突き飛ばされた先にあったガラス片で、肌に傷を作っていた。
「な、何事だ」
脱ぎ捨てた服を慌てて着ると、若い男は男爵の息子の方へ走り寄る。見覚えがあった。あらかじめ聞いていた人物がそこにいた。
「第二王子殿下、こんな所で何をしておいでですか?」
嫌悪感しかない。
「…」
驚きで声が出ないのか、第二王子は魔法陣へ一目散に走って行く。途中に何度か足をつまずかせながら、発動した魔法陣の中に消えていった。
男爵の息子も後を追う様に、円陣の中に消えて行く。
いなくなったのを確認すると、縛られていた縄に手をかける。
すると2人して、手を避けるように体を動かした。
「まだ効力が残ってる。近付くな」
唇をギュッと閉じ、目線を合わせないようにしながら言う。
「嫌ですよ。師匠いち、ジルウィートさん。私をちゃんと見て下さい」
あの甘い匂いは欲情を刺激し、精神を支配するものだ。彼等はユズを嫌っていない。むしろ好意を抱いてくれている。家族のように、友人のように。だからこそ、側にいてくれている。大切にしてくれている。
証拠は、今だその効力が体から抜けきらないことだ。吹かせた風でもう吸うことはなくても、感じている思いにも、それは大きな影響をあたえている。
自分にかかわってくれる大切な人達。守りたい人達がここには、たくさんいる。
にこりと笑顔を向けると、アルベルトとジルウィートの体に出来るだけ腕を広げて抱きしめた。
すると、びくっと体が反応し、目を大きく見開いた。
「…ユズ、縄を解いてから、してほしいんだけど。それ」
少しちゃらけて、上目使いで見ながら話すジルウィート。
「こうもうちょっと、ぎゅっとしてくれても、いいんじゃないかい、ユズ」
虚だった目がだいぶしっかりしたアルベルトが、締め付けられた縄の間から手を広げる。
「……」
逆にユズの目が虚になる。
無言で体から離れる。そして、べぇと舌を出してそっぽを向いた。
『えー』揃って2人が抗議をする。そして声をあげて笑い出した。
元に戻った…。本当に良かった。
2人とも、元気になったようだ。押さえつけていた力も、内に戻っていく。
『早く縄を外して』
子犬のような目で今度は訴えられる。体が痛そうだと縄を外すと、2人して腕を広げて『さぁ早く』と言わんばかりに抱きつこうとする。
ここは遠慮なく、頭をバシッと叩いた。
⚫︎
足元にある魔法陣を見ながら、一息つく。時間はあまりないが状況を整理する必要がある。
「師匠、ここにいる人達は、普通の生活が出来るようになりますか?」
小部屋に押し込められた若い男女、合わせても20人はいるだろうか。生気がある顔の者はいない。今だにあの甘い匂いは地下空間に漂っている。
この魔法陣から入ってくるようだ。
命令権でもあるのか分からないが、あの息子が逃げてからここにいるユズ達以外は誰も動こうとしなかった。
どこを見ているか焦点すら合わない、目を開けているだけだ。
「何とも言えないな。あれの押さえ付ける強制力は異常だった。まともな生活は出来ないだろうな」
自身が体験したことに身震いしていた。
「俺もあんなの初めてだ。だけどさ、悪魔って本当かな。召喚されたとしたら、うーん、いや、そもそもこんな事に手を貸す?」
「代償を払うことによって、願いを叶える。しかし、悪魔は自尊心が高い。品位を落とすことはしないはず」
引っかかっていたことだ。本当に召喚したのならば、悪魔も相手にしなければならない。
「もし、名を騙っていたとしたら?あの親子に悪魔の存在を臭わせ、名を騙らせたとしたら、報復の対象になる」
ユズの言葉にアルベルトは「ありうる」と考えこんでいた。
「親子の後ろにいる奴は自分の手を汚さず、悪魔さえ利用してるってこと?」
ジルウィートは後ろにいる人物が、誰かということをすでに知っている。もちろん、アルベルトもだ。もう確定して話している。
『…』
言葉に詰まる。どう転んでも分が悪い。
話し合いで終わるわけはない。
アルベルトはムーランに次ぐ魔術士。ジルウィートは騎士団長と同等の力量がある。戦闘に不安はない。
だが、後ろの人物の行動次第では、予想すら困難だ。
「考えてもムダですね。行きましょう」
「そうだな」
「まったく…ろくでもねぇな」
そして赤く光る陣の中へ、3人の姿は消えていった。
⚫︎
「おや、客人のようですね」
陽気に話す者がいる。
しかし、陽気の男の前には、真っ青な顔の親子が床に座り込んでいた。その奥には、椅子に足を組んで座るもう1人の男がいる。壁側の長椅子の上に、もう一人誰かが横たわっているように見えた。
魔法陣から転移されて、出て来た先は豪華な部屋の中。確認しなくてもここは、ザイン男爵の執務室か何かだろう。つまり、ザールという町だ。ザイン領の東端に位置し、ジェスの村から早馬で飛ばせば1日半ぐらいの距離にある。
にこにこと顔に笑みを浮かべ近付いてくる。足はあるが歩いてない。床から少し上を浮いている。
人間ではないことは一目瞭然だ。陽気であるが、感じるのは漆黒の底のない闇。
目だけは、血の色のように異様に赤い。
端正な顔立ちだが、それ以上に肌がピリピリと悲鳴をあげそうだ。ユズの目の前まで顔を近付けると、
「私が恐ろしくないのですか?」
鼻がくっつきそうな距離で、真っ赤な目がくるくると動く。
見られるほど、ユズの表情は冷たくなって無表情になる。
そして、逆に見る目は相手を逃すまいと意志がこもってゆく。
ここで少しでも気弱になると負けだ。この人外の者の思うつぼになる。
「いいですねぇ、私を射止めるようだ」
ぞくぞくする。ひとつひとつの動作が優雅で、返って人間味が無いのが当たり前に思えてくる。
手を顎に当てると上を向かせる。
後ろの2人に、手を出すなと腕を横に伸ばし制した。
「あなたは?」
言葉を選びながら、慎重に問う。
「これは失礼した。名乗っていませんでした」
おもしろそうに、じっと見つめている。
「私は悪魔と呼ばれる存在です。上位に属してます。そうですねぇ…、一部のモノからは夜王と言われています」
「…」
恭しく、わざと大袈裟に頭を下げた。
目の前のモノに間違えてその名を呼べば、命など消える。
彼等の上下関係は絶対だ。たかが人間が、それを口にすれば一瞬で終わってしまう。
冷や汗が止まらなくなりそうだ。
そして、何より上位、それも頂点に君臨するモノだ。だから名がある。
「名を持つ上位の悪魔である方が、何故ここにいるんです?」
「おお、興味を持ってくれましたか!」
クックッと嬉しそうにしている。
「私の名を騙り利用してくれた愚か者に、報復するためです。そちらの方にも、先ほど苦言をしたばかりでね。まったく困ったものです」
困ったというが、そんな様子は見受けられない。逆に余裕すら見える。
「なら、その人も報復すればいいでしょう」
「私とて、面倒なことはしませんよ。その方は厄介極まりないのでね」
「そのように見えません」
「ほんとにいいですねぇ。そうですね、あなたなら名を呼ばれても、従って差し上げてもかまわない」
うっとりした表情に変わる。
こちらは緊張で、顔が引き攣りそうだ。
「少し待っていて下さい。あれへの報復を早めに終わらせましょう」
パチンと空いた指を鳴らす。
そこには、形容し難い状況が広がっていた。
形を成しているのか、分からないものが親子の回りにうじゃうじゃいる。
どうなったかと言えば、そこに残るのは着ていた服の後だけ。
顔を上へされていても、目には入ってくる。
ジルウィートは口を手に当てるが、それでも顔色を変えずに見ていた。アルベルトはただただ見てるだけ。
少しは持ち合わせている感情など、わかない。冷たいと思われれば、それだけ。
長椅子に横たわって眠っている。正確には眠らされているのだろう、このお方。
これだけは、しなければならない。
「名を呼んでいいと思って下さるなら、その人を見逃してはもらえませんか」
指をさす。話に乗ってくれるか、即、殺されるか、天秤がどちらに傾くかは、この悪魔しだい。
「それには代償を頂けなければなりませんねぇ。どうしましょうか」
見下ろしている。その赤い目は、ユズの目から視線をそらさない。
どれくらい見合っていただろうか。その間、誰も動かない。2人の行動を見守っていた。一人を除いて。その一人は、成り行きを観察している。
体勢を崩さずに、耳元に口を寄せられる。
「あの男の目と髪はもうダメですね。長く眠りすぎだ。色を失くしても存在を放っている左目と、本来の右目を見たいですねぇ。輝く髪にも触れてみたい。ですが、今回はこれで満足することにしましょう」
言葉じたいに、相手を見下す冷徹さを強烈に思わせる。そして、愛おしそうに目を細めている。
『私のことはお見通しか』と口を開こうとすると、冷たいモノと重なった。
堪能するよう、食らいつくよう。
「…」
顔を上げたまま、手を広げて固まってしまった。
それをゆっくり離すと、舌でぺろりと舐める。
「代償をもらいすぎましたか。思う以上に、そそられてしまいました。では、あなたがこの世で生きている限り、私はあなたに従いましょう。その価値は十分にあります。今回の件は、私はその厄介な方の頼みで手出しは出来ない…。あなたのお手並みを拝見することにしましょう」
饒舌に言い連ねると、上位悪魔の夜王は闇に溶けるかのように消えていく。
どうにも言えない空気を残して。
『…』
その存在感の大きさと起こした行動、静かさがとても痛い。
後ろの両側から、布が差し出される。
「え?」
受け取ると振り返る。
怒ってる?どうして??
やっと悪魔はどうにかできた。まさかの行動で気持ち悪かったが、これくらいはどうってことはないだろう。
命を吸い出されたのでもなかったし、何でか分からないが、従ってくれると言い残してもいた。ここで死んだら、本当に困ったことになっていたので助かったともいえる。
私の存在も、その男の存在も分かっていたな。あの悪魔。
考え込んでいると、眉間に皺を寄せる2人の顔があった。
ものすごく不機嫌で、じとっと睨まれる。
『ふけ』
「?」
首を傾けると、
『口』
「は、はい」
2人の勢いに押され、渡された布でゴシゴシと口を拭く。
「こ、これで…?」
『とりあえず』
揃って言うのは、何とかして欲しい。
別の意味で怖い。
夜王が消えたことで、場の雰囲気も妙に和んでしまう。
「あはははっ。過保護だな」
今まで黙って見ていた男が、座っていた椅子から立ち上がる。
眠っている第2王子のいる長椅子に近付き、手をかけようとする。
パーンと弾かれる。
「あの悪魔め。忌々しい」
ふぅと息を吐くと、優雅に歩いてくる。
緊張感が再び、空気をピリっと張り付けた。
長身の男。長い髪で色は銀色、目は琥珀色。
『琥狼』と500年前に呼ばれた者。
ああ、そうか…。
あの妙な甘い匂いは、自分の発生させた風で効かないと思っていたが、違っていたようだ。
私は耐性を持っている。
「あなたは?」一応聞いてみる。
「知らん訳はないだろう?」
悪魔、夜王とは別の存在感を放っていた男。
500年も生きていたように思えない、若さを保っている。
この男が動くと、あらゆるものが騒ぎ出す。
体の中の血が、激しく流れていくのが分かる。
どくんどくんと鼓動が大きくなる。
声を聞くだけで、体温をどんどん下げていく。
「次は私の相手を願おうか。お嬢さん」
琥珀色の目が威圧する。
「銀の髪、琥珀の目。琥狼と呼ばれた者」
「そうだ。刀悟・香川とも呼ばれていたな。あぁ、…懐かしい名だ」
そうか、この男は同郷なのか。
ユズもまた琥狼と呼ばれる姿を持っている。
しかし、この男と一緒にされたくなかった。
憤りを感じる。
その気持ちが手を震わせていた。
ふと、気がつく。温かく包み込む2つの手。
2つの温もりが、ユズの心を落ち着かせていく。
「そう…懐かしい響きです。では、『本番』といきましょう」
言葉にした声は、何の感情もこもらない。
低い低い、地を這いずる、獣のような音だった。




