第1話 琥珀の巫女
そこに広がるのは美しい湖。
あまり人の踏み入ることのない、深い森の中心にひっそりとそれはあった。
底の見えない恐怖も感じるが、湖の回りに咲き乱れる花々の存在で神秘的な雰囲気を漂わせていた。
ポツンと湖のほとりに座り込む。
小さな鳥の鳴き声がユズの耳に聞こえる。
森の中に入れば、凶暴な獣や魔獣が生息する地。
「ユリア」の落ちたのは、エインの集落から少し入った森の中。今、ユズが一人いるのは、王都リッドから西へ進み、ザラ王国の先の海よりレインリッドへ流れる川を渡り、丘陵地帯を抜け少し南へ下り、森へ入った最奥の場所。
そう簡単に行ける場所ではない。
町のギルドでも、かなり腕の立つ冒険者でなければ、この森に立ち入る許可は出せないのだ。
そんな場所へユズは、一人でやって来ていた。
「すべてはここから動き出したのかな」
誰に言うのではなく、独り言をつぶやく。
首にかけていた首飾りを取り出すと、目の前に持ち上げる。
「元々はこの世の物なのに、なんで私が向こうで持っていたんだろ…。何か忘れている気がする。修道院で自分として気が付いてから、私は何か忘れている…、シスターリリーなら知っているだろうか」
私は漂っていた。あの空間にいて扉に触れ、この世に来たことを認識した。小さな子供の姿で、他の誰かの体に入ってしまったのではなく、自分自身の体だった。
シスターリリーから、まだ赤ん坊の頃にこの修道院に置き去りにされていたのだと教えられていた。そして、「クリス」という名前を付けてくれたのだ。
その頃から、どうしたら笑えるのか泣けるのか、怒れるのか…自然と出る表情ではなく、自分の意思ですることが分からなくなっていた。
相手の感情には気付けるのに、自身の事になると、まるでパズルのピースが欠けているかの様に形を成さなくなってしまう。
もうひとつ、琥狼と呼ばれる姿に変わり、力も増してしまうこと。意識して変われるのではなく、突然だ。
今は多少はコントロール出来てはいるが、全部ではない。
事柄が繋がっているようで、そうでもない。
「何故、ひとりで解決しようとするんだ?俺達がいるだろう。陛下は許可しても、俺はしない。お前を一人で行かせない」
任を解いてもらい、王都を出るためにルイに許可を求めに行った。陛下には王妃エリザから話しを通して、ある条件を受けることで護衛の任を解き、王都から出る許可をもらった。
あとは、本来、仕えるルイに頭を縦に動かしてもらうだけ。
しかし、ルイは横に動かし、認めなかった。
「何も言わなくても夜王はついてきます。ルイさまは軍部の頂点、期間が分からない旅にご一緒して頂く訳にはいきません。危険と分かっているんです。向かう場所はひとつじゃないかもしれない…、探さないと何も分からない…、何もないところから始めることになります。だから、私は一人で行きたいのです。どうか許可を下さい」
ユリアをダシに使うのは、はっきり言えば気が引ける。彼女とて、生きていくために正直にいるだけだ。しかし、違うところもあるが、彼女の行動が王妃エリザに全てを告白させる決意をさせてしまった。
そして、ユズはアルベルトに今まで誰にも言わなかったユズ自身のことを話したのだ。
アルベルトはユズに、この世と繋がりがあると言った。夜王同様に、はっきりとは教えてくれなかった。
分かっていることが、ひとつだけある。
『琥珀の巫女』と呼ばれる存在のこと。
ユズの持つ、この銀色の歪な四角形が重なり合う首飾りの本当の持ち主。
ユリアが銀の湖の巫女を名乗った時、夜王が教えてくれたことだ。夜王が召喚され、何かを頼まれた。その代償として受け取った首飾り。どういう経緯で異界を渡り、ユズの手にあったのか。
ユズの父親がカギになっていると考えるが、もういない。
「いつ終わりになるか分からないのなら、始めから決めて何度も行けばいい。危険と言っても俺も戦える。ユズが一人で行く必要はないんだ。俺はユズの存在をちゃんと分かって、ここへ連れて来た。なら一緒にユズ自身を見つけに行くのに問題はないはずだろう」
助け舟を出したのは、ムーラン。
「行かせてやれ、ルイ。お前の気持ちも分かるが、ユズのことも考えてやらないか。ユズの本来の存在はまだ知られてはいないが、ユリアがユズも同じ異界人だと気付く可能性は高い。だとすれば、戦闘能力、身体能力の高さ、ユズがここへ来た時の状況を知っている者が彼女が琥狼だと気付くことも考えられるだろう」
「だからと言って!」
「待て。落ち着け。今回の件を盾にしてユズを外に出してやればいい。『巫女に逆らった』という大義名分をつければ問題ない。それにお前が同行したら、また悪い方へ進むのは目に見えてる」
「ユズを一人にさせるのは嫌だ。自分の事を調べたいのは分かるが、何かある時に守ってやれない。もう…あの時と同じは絶対にダメだ」
「ルイ…、ユズは弱くない。それにアレはもう消滅しただろう。だとすれば、ユズに脅威を与える者はなにもない」
「……でも、ダメだ」
「必ず戻ると約束させればいいだろう。必ず、お前のもとに帰ると誓わせればいいだろう」
「…」
「私はユズを強引にあの戦いに向かわせた。だから、ユズのしたいことをさせたいんだ。罪が消えることはないが、少しでも力になってやりたいんだ。私からも頼む、ユズを行かせてやってくれ」
「その言い方は卑怯だろ。折れるしかなくなる」
ムーランの言葉にルイは、握りしめた手に力を込め、肩を震わせていた。
「…分かった。必ず戻ることが約束だ。調べて判明したことはちゃんと俺に報告することもだ。ムーランに俺に届く魔道具を用意させる。困った時、どうしようもなくなった時は、絶対に俺を頼れ」
ルイの手がユズの腕をつかむと、そのまま胸の中に閉じ込められる。
「側にいたい。目の届くところから出したくない。…何があっても、必ず帰ってこい。頼むから、俺を必要としてくれ」
今まで考えていた事が、全部消えてしまった。
伝わる温かさは、感じたことのない熱を持ち、ユズの胸の中を激しく揺り動かした。
「…はい。約束します」
言えたのは、これだけだった。
こうしてユズは王都を離れ、巫女がいたという銀の湖に向かった。
『湖に着くまでは私がいなくても大丈夫でしょう。私はいつでもユズから離れることはないですから。安心して湖まで向かって下さい』
器用に片目をつむる夜王。
人間の暮らしを楽しんでる、悪魔として見れなくなりそう…。
呆気に取られたユズだが、これ以上は考えない方がいいと強く思った。




