第8話 帰る場所②
「せっかく手に入れた主を、死なせるわけにはいきませんよねぇ」
その場に似つかわしくない間延びした声が、頭上から聞こえた。スーっとゆっくり降りて来ると、恭しく礼をする。
「失礼」
一言だけ告げると、ルイの抱きかかえていたユズの体は、黒い小隊礼服に似た服の男の腕の中に移動していた。
「何をする」
「言ったでしょう。死なせるわけにいかないと」
にっこりと微笑む男は、その場に膝を付き、その上にユズの頭を乗せた。
「お前、あの時の悪魔…」
「悪魔?」
赤い目がかなり異質に見える。ジルウィートは前こそ出ないが、いつでも飛び出していける体勢になっている。
「おやおや、私には戦う意志はありませんよ。ジルウィート殿、そして、ルイ殿。私は言われたとおり悪魔ですが、主はこの方なので、様とは呼べないですから、ご容赦下さい」
悪魔と名乗った男の目が、ルイの持つ銀の首飾りに移る。
「ここにありましたか。ねぇ、ムーラン殿」
意味あり気に話しを振るが、ムーランはずっと無言で何ひとつ動かず見ている。
「まぁ、それは置いておきましょうかねぇ。ちょっとばかり時間をかけすぎましたから」
愛しい者にでも触れるように、手をユズの頬にあてる。淡い黒い靄がユズの体を包み込む。
「お前は何をしようとしている。何者であれ、彼女を主とするのはなぜだ。と、聞きたいところたが、助けられるんだな」
これは絶対に確認しなければならない。
「もちろん。しかし、あなた方の助けが必要です」
「分かった。…信じよう」
ムーランがまったく今、役に立たなくなっているだけに、『助けられる』と断言する者を信用するしかない。
「まず、今の状況から。主の体は、言わば仮死に似た状態です。魂はここにありますが、心はここにいません」
「心がない?」
魂の定義みたいなものだろうか。
ゆっくりと講義を聞いている暇はないが、その考え方を説く者は多い。ただひとつと決まった答えも見つかっていない。
「心は時間の狭間にいる可能性は高いですねぇ」
「何故分かる?」
「主である彼女は、琥狼でしょう。なら、異なる世を渡った者。『唯一』この世の『扉』を開けて現れた。ならば、戻る時もある」
全員がユズの顔を見ている。今にも止まりそうな胸の鼓動の動きが不安を強くする。
「どうすればいい?」
「出現させるのですよ、『扉』を」
時間の狭間という言葉ですら初めて聞く。
なのに、こちらへ戻る『扉』を出現させろという。
「……、僕たちはユズを助けたいんだ。琥狼としてのユズを求めていない。人としての人格さえ歪めてしまうとこはないのか」
悪魔の膝の上で抱えられているユズは、もう元の姿に戻っている。アルベルトはユズの人格が変わってしまう事を危惧していた。
「私のことは夜王と呼んで頂いても大丈夫ですよ。面倒なので。私にとって今の彼女を主と認めたんです。変わってしまったら困ります」
当たり前でしょうと、言いながら、ルイの持っている首飾りに指をさしている。
「時間がありません。その銀の飾りが黒くなってしまったら終わりです。あなた方が今の彼女の帰りを強く願えば、私の支配領域まで届けば引っ張り出せます」
信じると決めたんだ。
ここにいる者は全員、想い願うことはただひとつ。たったひとつだけ。
不意に響く。
頭の中に聞こえる声。
『数多ある心が指し示すものが導く。是とする、一つの混沌。数多ある心が、やがて溶かし導く。真実の帰りし場所へ』
誰も声を上げていない。
しっかり聞こえた声。
「考えている時間はない。俺たちは彼女の帰る場所だ」
ルイはユズの手を握る。
「ユズの帰る場所はここだ。皆がいる、この場所こそが、ユズ、お前の居るべき家だ。だから早く戻ってこい」