第1話 自分という者
覚えているのは揺らいでいたこと。
漂っているのだろうか?流れているのだろうか?
ただ真っ暗な場所に、変わることのない景色をぼんやりと眺めていた様な気がする。
何かから逃げだしたくて、消えたくて、どうにかなってしまいたいという気持ちを無理矢理に体に押し込んでいた。反発しようとする、その気持ちにまた押し潰されようとする。
だから手を伸ばした。扉が見えた気がしたからだ。
その扉の取っ手に手が触れた時にガンっと衝撃が体を襲う。
同時に意識が一瞬にして薄れていき徐々に消えていった。
気が付いたら、そう、たぶん揺らいでいたんだと思う。
☆
この頃の少女は、いつも心ここにあらずという雰囲気だった。話せば答えるが、その目には意志という物を感じる事はない。
何故が腕にある痣を見た。激しく掻きむしって消えなくなった様な物。
それをただ、じっと見ていた。
どうしてか目が離せなかったのだ。見える腕は幼い子供のものだ。見ている目は自分の目。見えている腕はまるで他人の物の様に感じる。目を開けて見ているのに、痣があると分かるのに意識がはっきりしなかった。
無意識にもう片方の手で痣に触れた。
氷の様に冷たいそれは徐々に温かく、心地良いものへと変わる。
どこかで眠っていた何かが起き出してくる。
そして頭の中に色んな映像や記憶が、激流の様に猛スピードで流れ込んでくる。
「あっ」この瞬間に自分という者を思い出し、今の自分という者を認識した。
「どうしたの?大丈夫かしら?」
髪の長い穏和そうな女性がしゃがみ込んで顔を覗き見る。
首から胸元が白く、黒いワンピースを着ている女性は少女の事を良く知っているようだ。
「だいじょうぶ」声が幼い。
そうか私は小さな子供になっているんだな
認識は出来ていても、状況は把握しきれていない。
違う誰かの中にいるのではない。
これは自分自身であり、意志も自分の物だ。違う物を感じなかった。
「こんな痣、あったかしら?」
少女の腕を見ながら頭を傾げている。
「前からあった」
抑揚のない冷めた口調だ。怒りたいのか、泣きたいのか、笑いたいのか、何なのか浮かんでこない。感情という物が抜け落ちたのかもしれない。
私は自分を表現出来ない。仕方が分からない
「クリス…。もう一回聞くけど、本当に大丈夫なのよね?」
クリス、クリス、そうか私はこう呼ばれていた。名前さえ付けてもらえなかった私にこの優しい人は、一生懸命に考えてくれたじゃないか
この場所ですごした記憶が徐々に、鮮明になってゆく。
「シスターリリー、大丈夫」
「…ふぅ、分かったわ。もう寝なさい」
いつもと様子が違った少女-クリス-を心配そうに見ていたけれど、これ以上は聞かれる事はなかった。鮮明になった記憶、それはここに来る事になった理由。
数年前この場所に、まだ乳飲み児のクリスを両親が置き去りにしたらしい。両親かどうかも分からないが。
孤児を引き取り、この世界を創ったという神を信仰する場所、修道院に。当時はまだ修道女見習いが数名とシスターリリーしかいなかったため、クリスは大切に育てられてきた。
ほとんど話さず、虚空を見るような目で、何を考えているかも分からない子供を慈しみ名をあたえ育ててくれた。
修道院の大きな扉を抜け、礼拝堂の右のドアを開ける。
ドアのすぐ横の壁にある燭台のろうそくに火を灯す。
クリスはそのままベットに入ると上掛け布団を頭からかぶる。
「あらまぁ」
くすっと笑うとベットのに端に腰掛け、とんとんとゆっくりと体を優しくたたく。
いろいろ頭の中を整理しようと思うが、幼い体は疲れがたまりやすいのだろう。どんどんと眠気に勝てなくなり、やがて瞼は閉じる。スースーと規則正しい心音が布団から感じる。シスターリリーは立ち上がり「おやすみ」と小さく声をかけると、ドアを閉めずに続きの部屋のドアも開けたままにして礼拝堂へ戻って行った。
クリスはドアを閉め切るのを嫌がった。クリスが物心がつくような年齢になった時、唯いつ態度で表したのはこの事だけである。閉めようとすると自分で開けに来る。何故かと尋ねても首を傾げるだけだった。
きっとこれは今のクリスが問題ではない…、別の何か…。
漠然と浮かぶ。この子は今までの子供達と何かが違う…と。
シスターリリーは幼いクリスを可愛がっていたが、一人で生きていける様に色んな事を覚えさせた。修道女見習い達と同じ様に掃除に洗濯、料理に学問。もしどこへ行っても感情の乏しい、この愛しく可愛いい娘のような少女が辛い目にあわぬようにと。
しかし、いつの頃くらいだろか。クリスの手に剣士の様な硬いたこが出来るようになり、夜にふと気付くといない事もあった。朝にはちゃんと部屋に戻っており咎めることはしなかったが、心配で仕方なかった。
☆
澄んでいるまだ冷たい空気が、眠気が抜けきらない頭をすっきりさせる。
毎朝、修道院の扉の前の掃除をするのはクリスの仕事だ。
ちょうど今は寒い時期にさしかかる。
ここに季節というものがあるのかと聞かれるとすると、相当するものはある。
それは良く知られるものではない。場所にもよるだろうが、ここには暑い時と寒い時がある。この二つだけ。
季節を感じて一年を知る。なんて優雅なものはない。
空を見上げる。青空が広がり白い雲が小さな塊を作って、たくさん浮かんでいた。
「ほら、さっさと手を動かす。相変わらず無愛想ねぇ」
声をかけてきたのは、見習いを卒業して正式に修道女になったサランでである。
5年程前からここに来て、何かとクリスの世話を焼いてくれる。
姉さんみたいなんだよなぁ…。いつも一言多いけど
「前に比べれば、ちゃんと人間になりましたよ」
「何よ、人間って」
「ちゃんと話が出来るでしょう」
「あはは、冗談も言えるものねぇ」
いや冗談なんて言ってないけど。本当の事だけど
サランと話していると不思議と会話が普通に出来る様になった。年も9歳と比較的に近いし、自然と一緒にいる時間も多くなる。
16年もここにいるクリスを今だに怖がる修道女や見習いがいる中、サランだけが来てすぐ普通に接してくれる変わった人だ。
シスターリリーは母親の様な存在だし、当時からいる修道女も家族の様なもの。今だに怖がるというのは、サランの様に後から来た修道女や見習い逹である。
「ふん」
わざとにサランのいる方向に、ほうきでゴミを掃いた。
ぱしゃとお返しとばかりに水が地面に撒かれる。
「冷たい…」
ぷぅと口を尖らせて、抗議を訴える。
「あはは」
ほんと朝から元気だなぁ
無邪気に笑うこの年上の修道女を軽く睨み付け、大きくため息をついた。
この世はどこかで内乱や戦争がおきている。
争いがおこる理由など些細なことでよい。
跡目争いや領地争い、利益を貪るために人を欺くだけで勝手に始まってしまう。そして、犠牲になる者もいる。身分の低い者、女や子供。足でまといになる年老いた者。
「またどこかで争いがあったのかなぁ」
サランが修道院の横に流れる川の方から、おくるみに包まれた赤ん坊を抱えて戻ってくる。まだ生まれて数ヶ月にも満たない赤ん坊の様だ。
泣く事も出来ず、ヒッヒッと微かに声をあげている。
「乳母になってもらえる人探さないと」
助かると良いが、吸う力もなさそうだ
クリスは大きく開いた扉に向かい、シスターリリーを呼ぶ。
その夜は満月ともいえる。赤く燃える様な真ん丸な形をしていた。冷たく切れる様な風が吹く頃だというのに、生暖かい体にまとわり付くような風が感じられる。
朝に見たかった赤子は、見つかった乳母の乳を吸う事なく死んだ。
あまりにも衰弱がひどく、痩せて骨と皮だけの体では体力がもたなかったのだろう。それが分かっていて赤子の親は、修道院の入口ではなく川側の軒下に置き去りにしたのだ。
酷いことだろうと思う。しかし、今の世ではそうそう珍しいことではない。
クリスとて同じであったから。運良く死ななかっただけだ。
争いがあったか、男と逃げるのに足手まといになったのかどちらかだと思う。
そんなことを考えていたからか、なかなか寝付けずにただ天井を見上げていた。
いつもの癖で部屋の扉を開けたままにして。