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昔から、絵本が好きだった。
幼い頃、寝床で読み聞かせをしてくれる父さんの声が、私にとって一番大切な親子の思い出。
お世辞にも上手とは言えない、淡々とした読み方ではあったけど、それがかえって耳に心地よく、私には最高の子守唄だった。
とても不器用で、滅多に笑わない寡黙な人だったけど、うとうとする私の背で鼓を打ってくれた、その手の優しさと安心感を覚えている。
うちはもともと、4人家族だった。父さんと母さん、2つ離れた兄と私。
母さんは明るく情熱的な女性で、こう言っては何だけど、なぜ父さんと一緒になったのか不思議なくらい綺麗だった。
兄も、常に笑っている優しい人で…たぶん、母さんに似たんだろう。私が転んで泣いてしまったときなど、どうにか笑顔にしようとオリジナルギャグを連発してくれた。
感染症蔓延による経済不信で、すっかり荒れ果てた世の中だったけど、4人で過ごした時間は穏やかで、とても幸せな日々だった。
たまには喧嘩もあった。でも、毎日みんなで夕飯を食べ、他愛のない会話で団欒し、おはようとおやすみを交わし合った。
みんな、大好き。
大好きな…大切な家族だった。
10年前、当時6歳の私はあまり身体が強くなくて、よく熱を出していたらしい。
その日は兄の誕生日で、家族で映画を見に行く予定だった。
私は朝から体調を崩してしまい、微熱ではあったものの、その頃の世間は感染症予防対策に神経質で、家から出られない状況になってしまった。
兄さんは「また今度だね」と笑ったが、子供心に気を遣っていることは明らかで、ちょっと泣きそうになっていたことを覚えている。
なかなか気軽に遊べない環境で、誕生日ぐらいはと約束していた久しぶりの外出。
両親も、この優しい長男に我慢させるのは心苦しく感じたのだろう。
そんなわけで、父が私の看病につき、母と兄の2人で出かけることになった。
「ヨシノ、はやく元気になって!帰ってきたら一緒に遊ぶぞ!」
それが、最後に聴いた兄の声。
あのとき、私はワガママを言えば良かった。
行かないで。映画は今度にして今日は家に居て、と。
次に家族が集まった場所は、墓地だった。しかも、4人のうち半分は、墓の中。
母さんと兄さんが亡くなった…いや、殺されたのだ。
歴史に残る、全世界同時多発テロ。
国際テロ組織が日本においてターゲットとしたのは、東京都渋谷駅前にそびえる商業ビルだった。
目的は、ビル内にオフィスを構えていた国際大手企業への物理的攻撃。
一般客に紛れて侵入した工作員数名が、小型爆薬を使ってビルを倒壊させた。
通常、高層建造物はそう簡単に壊れたりはしない。しかし、どうやらテロ組織には建築家の出身が居たらしく、効率よく建物をぶっ潰す方法を知っていたようだ。
施設従業員と一般客を含む千余名を巻き添えに、ビルはぺしゃんこになった。
お母さんと、お兄ちゃんも。
まだ大国としての地位を残していた当時のアメリカを中心とした、被害者各国の熱心な報復活動により、テロ組織は数ヶ月のうちに所在を特定・処刑された。
でも、そんなニュースは誰の慰めにもならず…。
その頃から、だった。
父さんは、勤務先であった財善コーポレーションで新規プロジェクトの責任者を務めるようになり、週のうち4日は帰ってこなくなった。
本社のある豊田に異動となった父さんの都合で、私も転居に連れて行かれたけど、一緒に過ごす時間はむしろ減る一方だった。
その新規プロジェクトこそ、今やインフラとして生活に根差すIMG。
時間をとれなくなった父さんに代わり、睦月が私の子守りをしてくれていたのも、その時期だ。
やがて私が一人で生活することに慣れてくると、睦月は財善に回収され、父さんとはいよいよ連絡すらつかなくなった。
こうして、私は独りになった。
中等部の2年になった頃の話だ。
気づくと世の中は、IMGに依存した以心伝心を当たり前に享受する社会になっていた。
私は家族のいない寂しさと他人から優しさを押しつけられる違和感に戸惑い、孤独を許さない社会で孤立していった。
どこにいるとも知れない父さんと、もうどこにもいない母さんと兄さん。
会いたいという気持ちを忘れたわけじゃないけど、決して再現できない団欒を求めて足掻くほど、分別のない子供でもいられない。
16歳というのは、大人でもなければ、幼くもないのだ。
だからこそ、私は適切なリアクションというものが分からなかった。
ヒバカリさんの言う、私を狙う犯人、事件の黒幕。
それが行方知れずの父と言われて、正直なところピンと来なかったのだ。
いや、衝撃的ではある。
生まれて初めて死を覚悟したこの数時間、その元凶が自分の父親だと言われて、動揺しないわけが無い。
でも。
実感が、持てない。
蜘蛛型ロボットや黒インガの振る舞いと、記憶の中の父を結びつけるには、どうしても無理があった。
だって私は、父さんの優しさを知っている。覚えている。
「本当に、父さんが私を…?」
ヒバカリさんは、黙って私の目を見つめる。
それが何を意図しているのか、私にはわからない。
ただ、何を言われても納得できないだろう、とは思った。
…質問を変えよう。
「あなたは、何で知ってるの?」
「…聞こえたんだ」
「え?」
「君を…ヨシノを守れ、と。俺には、すぐ君のことだと分かった。いや、知っていた。…その声には、聞き覚えがあったんだ」
ぶつぶつと呟きながら、ヒバカリさんは心ここに在らずといった風だ。
「ヒバカリさん?」
「…すまない。俺も整理して話すべきだな。だが、そろそろ君も落ち着いたようだし、場所を変えても良いかな?表に待たせてある睦月が目立ち始めた」
そういえば、店先の二輪置き場に座らせた睦月のことを忘れていた。
人と偽って連れ込めるような風態でもないし、かといってインガのボディは「お手荷物」から余りにも逸脱している。
そんなわけで、可能な限りコンパクトな姿勢として体育座りをさせた睦月を、私たちはオートバイと自転車の間に押し込めたのだ。
しかしやはり、機械の塊は目立つ。
被害に遭ったわけではない野次馬が、どうやらキープアウトの向こう側は窺い知れないと悟り始め、代わりにインガのボディに興味を持ち始めてしまった。
店先の人混みがまばらな今のうちに、退散すべきだろう。
立ち上がりがてら伝票に手を伸ばすと、ヒバカリさんに制された。
「大人と一緒にいるときは、素直にご馳走されるもんだ。…その前に、少し待ってくれ」
と、ヒバカリさんが目を瞑り、一瞬間が空いて店先からどよめきが起こった。
体育座りで待機していた睦月が、急に立ち上がったのだ。
どうやら、ヒバカリさんが操作しているらしい。原理は全くわからないけど、IMGの何かしらだろう。
立ち上がった睦月がゆっくりと一歩踏み出し、野次馬が左右に割れる。
次の瞬間、その開かれた隙間に飛び込むようにして、睦月が走り出した。
私を担いでいたときとは比べ物にならないスピードで、あっという間に姿が見えなくなる。
「…よし、行こうか」
ヒバカリさんが立ち上がり、にこりと微笑む。右手には、しっかり伝票が握られていた。
会計を済ませ、まだ落ち着かない野次馬を横目に、堂々と道を横断する。
そうか。注目の的になった睦月を衆目の前で回収していたら、私たちこそ目立ってしまうし、この状況だと事件の関係者かと勘繰られるかもしれない(しかも、図星だ)。
先に睦月を動かしておけば、私たちは無関係でいられる。
実際、こちらに目を向ける野次馬はひとりもいなかった。
とはいえ、流石に睦月が走り去ったのと同じ方角に進むのは良くない。謎のロボットと同じルートを行く人がいたら、誰かしらに怪しまれる可能性はあるだろう。
「こっちだ」
ヒバカリさんに示され、通りを少し道なりに歩いたところで脇道に入る。
封鎖されているPALCO周辺からそれほど離れていないけど、現場から死角になるこの路地に人影は無かった。
商業ビルに挟まれた路地は、陽が傾き始めたこの時間は薄暗く、歩みを進めるほどにアングラ感を増していく。
とはいえ、財善コーポレーションが統治するこの街で、本当にアングラと言える場所は無い。
敢えてそういったデザインで雰囲気を作っている店もあるけど、今や酒類より不健全なサービスが提供されることはないだろう。
それでも、扇情的なイラストがあしらわれた看板や、悪趣味にも思えるオブジェを飾った店舗が増えてくると、薄暗さも相まって変な緊張感がある。
要するに、ビビってるのだ。
そんな私に、ヒバカリさんは何とも大人の余裕といった様子で「もうすぐだ。なんだったら、目を瞑っててもいい」と声をかけてくる。
申し訳ないけど、あなたのことだって、まだ完全に信頼できてないからね。
流行りのファッションに疎く、最先端SNSに迎合できず友達がほとんどいなくて、なかなか青春を浪費している感は否めないけど、私だって一応は女子高校生。
命の恩人とはいえ、初対面の男性に裏路地深くまで連れ込まれて、何の危機感も持たないほど朴念仁じゃない。
状況が状況だから従っているけど、気を許した覚えはないぞ。
「ハハハ、怖がっているわりに、度胸はあるじゃないか」
「…どういう意味ですか」
「そのままの意味だ。俺は最初、泣いて取り乱す少女をどうやってなだめすかそうかと悩んでいたんだぜ」
…?
そんな子、どこにいたんだろうか。
「いや、なに。居なかったという話さ」