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インガ―――IMG Avatar。
かつて、財善コーポレーションがIMGプロジェクトの一環として開発したものの、費用面の問題から破棄された「具現化されたアバター」。
簡単に言うと、とてつもなく精巧なロボットだ。
リリース前に頓挫したので、一般には存在さえ認知されていないプロダクトだけど、私は知っている。
なぜって、開発者は私の父だから。
しかも、目の前のこれは…
「睦月…?」
一瞬、インガがこちらを見やった。
間違いない、2つのレンズがついた双眼鏡のような頭部、トレッキングウェアのような黄色いジャケットを纏った胴、細く伸びた手足。
父さんが最初に開発して、試験運用だと言って自宅に連れ帰り、少しの間私の身の回りを世話してくれた、あの睦月だ。
「む、むつ…」
瞬間、何かが弾ける音と衝撃があって、睦月の身体が吹き飛ぶ。
ビルの外壁に叩きつけられた睦月には、蜘蛛型ロボットが絡み付いていた。
そのままギチギチと昆虫の威嚇音みたいな音を立て、彼を締め上げる。
肘鉄を叩き込み、胴にしがみ付くロボットを引き剥がそうとする睦月。
しかし、鋼鉄の機体は簡単に壊れることがなく、睦月は捕食されるのを待つ獲物のような格好となっていた。このままでは…。
と、睦月の頭部がこちらを向き、レンズと視線がかち合う。
逃げろ。
そう言われた気がして、走り出す。
とにかく、人のいる場所に行きたい。誰か助けを呼ばないと。
必死に路地を抜けると、大通りに出ることができた。
ビルの前には、救急車とパトカーが何台も止まっていて、怪我人が次々と運び出されている。
多分、あそこにはカオリも…。
雑踏の中に重装備の警務員を見つけ、ハッとした。
振り返ると、どうやらあのロボットは来ていない。
「す、すみません!助けて…」
私の声は、破裂音で掻き消された。
パトカーが爆発したのだ。
衝撃が鼓膜と耳小骨を揺さぶり、それによる目眩と耳鳴りが私の五感を混乱させる。
思わず尻もちをついて、それでも何とか持ち堪えて目を凝らすと、炎上するトラックの前に大きな影があった。
さっきのロボットとは違う、明らかに人型の…まるで、インガのようなシルエット。
なに、あれ。
何が何だかわからないけど、危険であることは間違いない。
ようやく音を取り戻し始めた耳に、絶叫とサイレンが流れ込んでくる。
混乱。
およそ日常で向き合うことのない、命の危険。誰も彼もが、可能性のひとつとしても考えたことのない状況に、理性的な行動を一切取れなくなった。
爆発に巻き込まれ地面に叩きつけられた人達を除き、パニックを起こして逃げ惑う群衆のなか、インガらしき影だけが、悠然とした振る舞いで辺りを見渡している。
―――ミツケタ
目眩が治り、ぼやけた視界がハッキリとした輪郭を取り戻した頃、その影と目があった。そんな、気がした。
嫌な汗が噴き出すのを感じるのと同時に、反射的に踵を返して駆け出す。
状況は何もわからない。けど、ここはダメだ。
あの影…インガは、たぶん私を狙っている。そして、この場に頼って良い誰かは居ない。
ここに居ても、事態は良くならない。
そう直感して、私はとにかく人混みから遠ざかることを最優先に駆けていた。
幸か不幸か、現在地はネオ豊田シティの端に位置していて、すぐそばには旧市街がある。
今は、そこを目指すしかない。
と、背後から再び破裂音。
何が起きたのかわからないけど、振り返っている余裕はなかった。
衝撃に足を掬われそうになりつつ、くず折れそうな膝を何とか前に繰り出し、がむしゃらに走り続ける。
途中、何度か破裂音と衝撃が繰り返されたけど、私の意識は足を止めないことだけに向けられていた。
旧市街に行くには、建ち並ぶ商業ビルの間を抜けて、新市街との境界を越えるしかない。
ビルの隙間を走り抜け、立ち入り禁止の看板が括り付けられたフェンスを乗り越え、目についた廃ビルに逃げ込む。
解放されていた通用口から入って階段を駆け上がり、3階分ほど上がったところで、だだ広い空間に出た。
あたりを見渡すと、埃に塗れた廃車が点々としていて、どうやらここは商業ビルの立体駐車場らしい。
廃車と廃車の隙間に入り込み、息を殺して身を潜める。
…何なの、この状況は。
考える余裕ができたところで、かえって恐怖と混乱が心を満たす。
あのインガ…遠くてぼんやりとしか見えなかったけど、真っ黒で異様な雰囲気だった。
多分、あの蜘蛛型ロボットも仲間だろう。
いきなり襲われたけど、目的も理由も見当がつかない。
特に、あの黒いインガ。
機械とは思えない、気迫みたいなものを感じた。
目があったときの、体の芯から震えが沸き起こる感覚。
得体の知れない人型の物体が、平和な日常では起こり得ない破壊行動を起こして、それは多分、自分に向けられたもので。
身の危険というものを肌で感じたとき、人間はこんなにも情けない状態になるんだ。
大型トラックを吹き飛ばした黒いインガ、それと目が合った恐怖。
瞬間、その光景がフラッシュバックして、言いようのない感覚に襲われる。
それを見計らったようなタイミングで、すぐ近くから何かが崩れる音がした。
マズい…来たんだ。
咄嗟に立ち上がり、一歩踏み出した瞬間―――。
地面が無くなって、コンクリートに叩きつけられた。
一瞬、何が起きたのかわからなかった。反射的に絶叫が口をつき、とにかくパニックに陥る。
どうやら、地面が崩落して、下の階に落ちたらしい。
パニックを起こした頭は落ち着いてなかったし、みっともなく叫び声も上げ続けていたけど、何とか立ち上がろうともがくことは出来た。
そして…今度こそ、もうダメだ。
目の前に、黒いインガが居た。