拝啓 大好きなおばあちゃまへ
まず、ここに来てくださった皆様に感謝申し上げます。
拙い手紙ですがお読みくだされば幸いです。
まずはご挨拶。この話を読もうと目を通してくださった皆々様にお礼申し上げます。
今年の四月下旬、未明に祖母が亡くなりました。
私の実家でおば二人、私の母、私に見守られる中、静かに、安らかに息を引き取りました。
ここに書くのは敬愛する祖母への最後の手紙です。
私の祖母は娘、息子、娘の三人の母であり、七人の孫の祖母でした。
私ですか?私は祖母の長男の三人姉妹の長女であり、祖母の初孫でもあります。
拝啓 大好きなおばあちゃまへ
働き者で、上品で、明るく、優しい。
花を愛で、土に塗れて美味しい野菜を育てる傍ら、着付けの先生をして、洋裁和裁の達人で、茶道を嗜み、日本舞踊を習っているかと思えば、齢七十にして斜面を駆け降り野うさぎを捕まえてみたり、お料理教室を開いて、パソコン教室にも通っていて、脳梗塞で右半身麻痺を患っていたおじいちゃまの介護もずっとしていましたね。
私の中のおばあちゃまはスーパーウーマンそのものでした。
心の底から人を想い、人のために何かをするのが大好きで、常に人の為にうごいてましたね。
楽しい事をするのが大好きでいつも家族の、友人の、皆んなの中心。
そんなおばあちゃまが大好きで、おばあちゃまは私の誇り。おばあちゃまに似ていると言われると嬉しくてたまりませんでした。今でもとっても嬉しいです。
おばあちゃまはいつでも孫の味方でしたね。
覚えていますか?私が幼い頃、食が細くて苦手な食べ物が多くて……特にブリのあらが食べられなかった事。
母は私に好き嫌い無く食べさせようと残すことをなかなか許してくれませんでした。
そんな時におばあちゃまが掛けてくれた一言。「苦手なものはね、一口食べるだけで良いのよ。全く食べないのはいけないけどそれだけ食べれば充分よ」。その言葉をもらってから私は全く食べようとしていなかったものでも一口は頑張ろうと食べるようになりました。
ピーマン、ニガウリ、きゅうり、お刺身、魚料理全般などなど。
苦手で食べられなかったものも、一口食べてる内に美味しさを理解して、大人になった今はほとんどが食べられるだけでなく、美味しいと思えるようになりました。ブリのあら以外は。
それ以外でも、母に怒られてはおばあちゃまのところに逃げていましたね。よく雷を落としていた母も、おばあちゃまの前では少し控えめになっていましたよね。怒られそうな事をしてしまった時には母より先におばあちゃまへ報告していた事を思い出します。
おばあちゃまのお料理も大好きでした。
桜餅、お正月の伊達巻や黒豆、ちらし寿司やカボチャプリン、プリンケーキやレアチーズケーキ、大学芋やお豆ご飯にカボチャのスープ。石油ストーブの上で焼き芋を焼いたり、けんちょうやおにしめ、ぜんざいなどを温めていましたね。
皆んな大好物です。
思い出せばおばあちゃまの石油ストーブはいつも美味しいものと一緒でしたね。
そういえば私が介護福祉士の道へ進んだのはおばあちゃまがきっかけでした。
私が生まれた時にはすでに脳梗塞の後遺症で右半身が麻痺していて、杖をついていたおじいちゃま。私が大きくなる頃には車椅子生活になっていましたね。
そのおじいちゃまをおばあちゃまは家で、ずっと介護をしていましたね。
私が高校卒業目前で進路に迷った時、思い浮かんだのがおばあちゃまとおじいちゃまの姿でした。
介護を学んで大好きなおばあちゃま達の役に立ちたい。そう思って進みました。
おばあちゃまはとても喜んでくれましたね。
私達孫には「おばあちゃま」と呼んで欲しいと言っていましたね。
詳しい理由は忘れてしまいましたが、確か「お上品で優しい響きだから」だったはず。幼い頃は「おばあちゃん」と呼んでは「おばあちゃま」と呼び直すよう正されていましたね。
大きくなるにつれ「おばあちゃま」と呼ぶのが恥ずかしくなって「おばあちゃん」と呼ぶ子も出てきましたね。
私も一時期「おばあちゃん」と呼びました。でも最期には皆んな「おばあちゃま」と呼んでいましたね。
おばあちゃまは私達孫にたっぷり愛を注いでくれましたね。
お誕生日には欠かさずお手紙とお小遣いをくれていましたね。
私達が合格すると素敵な喫茶店へ連れていってお祝いしてくれましたね。
旅行から帰ってきた時には素敵なお土産をくれましたね。
孫を集めてしてくれたお茶会を開いてくれたこともありましたね。
茶道を嗜んでいたおばあちゃまに習ってお茶の作法を学びながらいただくお茶とお菓子はお楽しみの一つでした。
籾殻のことをすくもと言ってましたね。すくもの山で秘密基地を作ったり、皆んなで大きなゴリラやカッパのぬいぐるみ相手に相撲を取ったり、ワニの形のシーソーで遊んだり、二階でごっこ遊びに興じたり、夏の庭でビニールプールを出して遊んだり全員で全力を尽くして鬼ごっこやかくれんぼをしたり。従兄弟姉妹達との楽しい思い出はいつもおばあちゃまの家と一緒でした。
よく私達をお泊まりさせてもくれてましたよね。皆んなで朝ごはんを作ったりもしましたね。
どれも大切な思い出です。
私は初孫で隣に住んでいるということもあって、ちょっといいことをしてもらった記憶もあります。
綺麗な青緑色の浴衣を作ってもらったり、発表会にドレスを着せてもらったり、お正月のぜんざいを早めにもらったり……。ちょっぴり自慢でした。
また、「優しくて大好き」といつも褒めてもらっていました。それが堪らなく嬉しかったです。
おばあちゃまには沢山の楽しい思い出を貰いました。
各家が作ってお弁当を持ち寄ったお花見。県内の様々な場所でしたキャンプ。中でも印象的なのは使われなくなった親戚の古民家で泊まったものでした。
アパートや市内の花火大会。お盆に集まってバーベキューをした後も必ずと言っていいほど花火をしましたね。近所の夏祭りにもよく連れて行ってくれてましたね。
十二月の末には餅つきをしましたね。最初の数回は杵でついて後は餅つき機でしたね。餅米を炊く火の番をするのが好きでした。お餅になる前の餅米も美味しくて皆んなでよくつまみ食いをしましたね。熱々のお餅をおばあちゃまが平気な顔で千切っていたのを思い出します。皆んなで捏ねて一通り終わったら、出来立てのお餅を砂糖醤油やきな粉で食べていましたよね。
お正月は年の行事で一番大変だったような気がします。女性陣や女の子は皆んな台所で宴会の準備に追われていましたね。おばあちゃまは特に何日も前から夜通し準備をしていましたね。宴会で男性陣が早くも出来上がってしまって女の子達で文句を言っていたこともありました。普段あまり会わなかった大おばさんや大おじさんにも会えて嬉しかったことを覚えています。
友達に話して一番驚かれる事が多かったのがわらび狩りでした。各家がお弁当やおやつを持ち寄って山に行きましたね。皆んなでビニール袋を持って斜面に踏み入って誰が一番採れるかを競ったこともありました。わらびを採るのに飽きた子供達で大きな岩に登ったりして遊んでいましたね。
親戚一同で年に何回も集まって楽しく過ごしましたね。
イベント事をした後もまたおばあちゃまの家に集まって、大人も子供も皆んなして本気になって人生ゲームやトランプをして過ごしましたね。
大人になっていくにつれ、皆んなの都合が合わずに集まる人数も、集まる回数も減っていきましたが、お正月とお盆は必ず集まりましたね。
皆んなでわいわいと賑やかに爆笑しながら遊んだひと時を忘れられません。
従兄弟姉妹、おばさん、おじさん、皆んなと今でもこんなに仲がいいのはひとえにおばあちゃまのおかげでしょう。おばあちゃまが皆んなとの縁を繋いでくれていましたね。
三年前、コロナが流行り始めて皆んなで集まれなくなりましたね。
その少し前からおばあちゃまは咳が止まらなくなって病院で診てもらったら間質性肺炎だと言われましたね。
お出かけができなくなって、集まることもできなくなって、人が訪ねてくることも減って、おばあちゃまは一人で家でじっとテレビを見ているようになりましたね。
おばあちゃまの家は次第に荒れてしまいましたね。
去年の四月、お父さんの誕生日にお寿司を作るんだと言っていたおばあちゃまは前日に誤嚥性肺炎で高い熱を出して入院しましたね。
入院中はコロナで面会も出来ませんでしたね。
五月に退院した時はだいぶ痩せてしまっていておばあちゃまはずっと気にしていましたね。
退院後はずっと私達の家で暮らしましたね。病院の帰りにはよくお食事に行きましたね。父と母と私とおばあちゃまの四人でお誕生日のお祝いをしましたね。
七月下旬に誤嚥性肺炎で二回目の入院をしましたね。退院した時に次に誤嚥性肺炎で入院したら、もう口から物は食べれなくなると言われて、おばあちゃまの食事は流動食になりましたね。
食事の前には必ず私と一緒にお口の体操をしましたね。
食べたら誤嚥する可能性が高いから食べられないのにお鍋やお菓子を食べて私達に怒られる事が多かったですね。
体力がだんだん落ちて寝る時間が増えてきたので運動をするように私が厳しく言ってしまったこともありましたね。
そんな時はおばあちゃまはプンプンと怒ったり、私に「はぁ厳しいねえ」、「〇〇ちゃんにはこのしんどさはわからんのでしょうね」と言ったりしていましたね。
私は今まで見たことのなかったおばあちゃまの一面を知りました。もう、おばあちゃまにとって「優しい〇〇ちゃん」ではないのだと思って泣いたこともありました。
お互い怒ったり、喧嘩したりする事が増えていきましたね。
今年の二月下旬。おばあちゃまの様子がとても辛そうだったので病院へ行く日を少し早めました。
見つかったのは心臓の病気でした。かなり悪い状態だと言われて、血中酸素値も低くておばあちゃまはそのまま入院になりましたね。
体に二酸化炭素が溜まっていると言われてそれを飛ばすための治療でまた食事が食べられませんでしたね。誤嚥性肺炎も起こしていたと先生から言われました。
それでも最初は心臓のリスクを抱えながらも自宅で生活できるように、食事を再開する方針でリハビリを進めていましたが、容態が徐々に悪くなって、もう口から食べることは出来ないだろうと先生に言われました。
太い血管やお腹に直接栄養を入れるなどの延命治療はしないとおばあちゃまは私達に伝えてくれていましたね。
点滴で最期までを緩やかに繋ぐ命のカウントダウンが始まりました。
最期までを療養するための入院へ移行する前に一つの提案をされました。
家へ帰ること。
おばあちゃまは入院している間ずっとずっと「家へ帰りたい」と言っていたそうですね。
先生からは私達家族の負担の大きさを考えて退院生活は一週間が限度だろうと言われました。
家族会議を経て、満場一致でおばあちゃまの退院を受け入れることになりました。
週に三回片道一時間のおばあちゃまが入院している病院へ、痰の吸引の練習に通いました。病院の看護師さんや、ケアマネージャーさんや先生と何度も話し合いを重ねて家へ帰る準備をしました。母と私で二十四時間介護の体制を整えました。
その準備の間にもおばあちゃまの容態は二転、三転して、帰り道すらも危うい状態だと言われました。
また家族会議をして、おばあちゃまを自宅で最期まで看取ることに決めました。
私がおばさん達に連絡して、おばさん達は退院したその日に会えるように手配してくれました。
おばあちゃまは体が辛そうでしたが、退院する日を伝えると指折り数えて楽しみにしていましたね。
四月中旬。おばあちゃまの退院する日になりました。
おばあちゃまは沢山の看護師さんや先生に囲まれて、皆んなに退院をお祝いされていましたね。
お父さんが来ていることを伝えるとくるりと視線を巡らせて見つめていましたね。
帰りの車で綺麗な芝桜を見ましたね。
家に着くと伯母さんと伯父さんと従姉妹の一人がお花を持って待ってくれていましたね。
直ぐに叔母さんと従兄弟の一人が来てくれましたね。
その日の内にもう一人従姉妹が来てくれて、私の妹達も帰ってきましたね。
それから三日間、毎日誰かが居て賑やかでしたね。
お父さんが筍を掘ってきて「作ってくれ、皆んなで食おういね」と言ったそうですね。
叔父さんも会いに来てくれましたね。
家族皆んなに会えましたね。
コロナで離れ離れになっていた家族がまた集まるようになりましたね。
四日目。おばあちゃまは痰がずっと絡まってしまって苦しそうでした。訪問看護師さんの手当てを受けても痰が取れなくてこのままでは夜も苦しいままだとショートステイに緊急で入ることになりました。
伯父さんにお姫様抱っこで運ばれたこと、覚えていますか?施設中で「素敵!」と噂になっていましたよ。
そこから七日、おばあちゃまとショートステイの部屋で二人きりの日々を過ごしましたね。
私は朝の十時くらいから十五時くらいまで家へお風呂に入ったり食事をしに帰っていました。
毎日おばあちゃまの顔を見ながら眠って、おばあちゃまの側で書き物をしたり、おばあちゃまとテレビを見ながら話したり……。
一緒に穏やかな時間を過ごしましたね。幸せでした。
七日目に私が家へ帰っている時施設から連絡が入りました。
おばあちゃまの血圧が下がってきていていよいよ最期が近いとのことでした。
そうしておばあちゃまは再び我が家へ帰ってきてくれましたね。
入院し始めてちょうど一年と一日。お父さんのお誕生日に帰ってきてくれましたね、
きっと何よりも嬉しいお誕生日プレゼントだったのではないでしょうか。
お父さんは何度も「今日わしの誕生日じゃあね。五十九になったよ」と繰り返していましたね。
家に帰ったらまた皆んなに囲まれましたね。
おばあちゃまの手を常に誰かが握っていたこと、覚えていますか?
遠く離れていて集まれなかった従兄弟の最後の一人とも電話越しにお話しできましたね。
夜になって皆んなが一度帰っていった後、また少し私と二人きりの時間を過ごしましたね。
その時に私が繰り返した「おばあちゃま大好き」、「ありがとう」の言葉は届いていましたか?言葉が詰まって言えなかったけど、「おばあちゃまの孫でいさせてくれてありがとう」という気持ちで言ってました。
十二時を過ぎて、次の日仕事だったお父さんが寝る前に何度も「明日仕事だから寝るね。おやすみ」と言っていた声は聞こえていましたか?
それから少ししておばあちゃまの呼吸が変わり始めておばさん達を呼びました。
おばさん達がかわるがわる握っていた手の温もりは感じていましたか?
おばあちゃまが息を引き取った後、お父さんとおばさん達三人で固まって横になっていたんですよ。可愛かったです。三人が並んで寝ているところなんて初めて見ました。
夜が明けるまでおばあちゃまの居た和室の隣でお父さん、おばさん達、お母さん、私の五人で布団を並べて横になって話していました。
おばあちゃまのお通夜の日、おじさん、おばさん、従兄弟姉妹含む家族皆んなで集まって、いつかのお正月のように賑やかに楽しく話をして過ごしました。
側から見たら「不謹慎な」と言われるかも知れませんでしたが、賑やかに家族皆んなで楽しく過ごすのが何より好きだったおばあちゃまだったからあんなお通夜でもよかったですよね?
おばあちゃまは最後にもう一度家族皆んなの一番いいところを引き出して繋いで逝ってくれました。
おばあちゃまはいつだって、ずっと、亡くなった後でも私達家族皆んなを繋いでくれる深い絆そのものです。
おばあちゃまは私の誇りです。
怒った所を見たことも、喧嘩したことも、介護をしたことも全て経験したのは孫の中では私だけでしょう。たまたま私が家にいて一緒に暮らしたからこそ出来たことです。おばあちゃまの全てを見た訳ではないけれどマイナスな面を見てもやっぱりおばあちゃまが大好きです。
おばあちゃまが居なくなってすごく、ものすごく寂しいです。悲しくて胸が張り裂けそうです。おばあちゃまに会いたくて会いたくてたまりません。
いつかこの気持ちを乗り越えられる日が来るのでしょうか?
おばあちゃまは最期、幸せでしたか?
私はまた、おばあちゃまの「優しい○○ちゃん」に戻れたでしょうか?
おばあちゃま、大好きです。
私をおばあちゃまの孫でいさせてくれて本当にありがとうございました。私のおばあちゃまでいてくれて本当にありがとうございました。
おばあちゃまと二人きりで過ごした毎日はおばあちゃまからの最後のプレゼントだと思っています。
大切にします。
敬具
お読み下さりありがとうございました。
お読みくださり、ありがとうございました。
四月中旬からおおよそ二週間。私は祖母の看取り介護をしました。
そのためか、今現在、ここで語った思い出の中の元気な頃の祖母の顔が思い出せません。
思い出せるのは痩せ細った、でも、お肌はぴちぴちで大きな目をした看取り期の祖母の顔だけです。
整えられて納棺された顔はこれが祖母とは思えませんでした。
遺影の着物を着て美しい微笑みを浮かべる顔も、心がイメージは祖母だと伝えてくるのに、その時代の時の元気な頃の祖母の顔が思い出せません。
楽しかった記憶はあるのにぽっかりと穴が空いたように祖母の顔だけが思い出せません。
畑で元気に野菜を育てていた、祖母の顔が思い出せません。
この最初で最期の手紙を書くことで私は心の整理を。
この手紙を誰かに読んでもらうことで気持ちの消化を私はしたかったのかもしれません。
涙脆い私は、まだまだ祖母の思い出を語るだけでも涙が止まりません。鼻水も出ます。
この手紙が祖母に届くのかは分かりませんが、誰かの心に届くといいなと思っています。
笑って祖母の思い出を語れるといいなと思っています。
従兄弟姉妹達と、おば、おじ、みんなで祖母の思い出を語り合っていきたいと思います。
いつか、元気な頃の祖母の顔を思い出せるまで。