第八話 犯罪レベルのストーカー
ノエルは今さっきまで、昨日、彼女とここで出会ってしまった運命を、不運だと嘆いていた。
けれど違う。
この出会いは幸運だ。
なりゆきだが、彼女がノエルを占い師だと勘違いし、信用してくれた。
ならばこの立場を上手く利用すればいいのではないだろうか?
もちろん、彼女にノエルを上手くあきらめさせ、結婚を白紙に戻すために。
「金はいらねえ」
「遠慮する必要はないわよ?」
「別に困ってねえからな。それにその金、無駄遣いしていいようなもんじゃねえだろ?」
税金であることを暗に匂わせると、彼女はどきりとした顔をした。
「条件はただひとつ。俺の言うことを必ず信じ、それに基づいた行動をすること」
「それだけ?」
「それが守れるなら、その男と上手くいくよう、助言してやらないこともない」
「もちろん守るわ!」
「――よし。契約成立だな」
ほっとしたノエルは、つい彼女の頭をぽんと撫でていた。
「頼むから、良い子にしてくれよ?」
のぞき込むように顔を近づければ、彼女の頬がほんのり色づく。
「……って、おい、何だ、その顔は」
「しかたないでしょう! あなた、ちょっとだけあの方に似ているから……というか! わたくしに勝手にさわらないでちょうだい! その汚い手でふれるなんて、罪よ! 罪!」
「ちょっと待て、あんた、俺には絶対に惚れるなよ!?」
「バカにしないで! 誰があなたみたいなゴミに惚れるっていうのよ!」
「って、この顔見てよく言えるな! あんたの目、腐ってんのか!? 俺がこの顔でどれだけの女を抱いてきたと思ってる!?」
「だっ……信じられないわ! 不潔! やっぱりゴミじゃない!」
「って、なんだ、その言い様は! その性根……俺だったらあんたみたいな女とは絶対に結婚したくえねえ!」
「わたくしがゴミと結婚? 天地がひっくり返ってもそのようなことにはならないから安心してちょうだい!」
「……あのさ、さっきから聞いてるけど、いい加減うるさいんだよね。僕は違う席で飲んでくるから、あとは二人でゆっくりやってくれない?」
呆れたように言いながら、セドリックが席を立った。
それでもノエルとリュシールは、ぎゃあぎゃあと騒ぎ続けていたのだった。
* * *
――マジでほんっとうに最悪だ、また俺を見てやがる。
それから十日後の昼下がり。
ノエルは近衛隊隊長として、王宮で仕事をしていた。
異変を感じたのは、演習場で剣技の実技訓練がそろそろ終わろうかという頃だ。
右斜め後方からの、絡みつくような視線に気づいたのだ。
――ったく……なんでおとなしくしてられないんだ、あの女は。
気取られないよう溜息を吐いたのち、そろりと様子をうかがってみる。
ほら、やはりそうだ。
予想どおり、演習場の南側の塀の隙間から、こちらをのぞく大きな蒼い瞳がある。
どうやら彼女は、塀に張り付くようにして、勤務中のノエルを監視しているようだった。
――あいつのストーカーぶりも、もはや犯罪レベルだな。
幸か不幸か、ここ数日は仕事が立て込み、例の酒場に出向くことができなかった。
そのためシャルマンとして彼女と会うことも無かったが、その間、ノエルに対する彼女のストーカー行為の程度がひどくなっている。
「よし、そろそろ時間だ! 全員、集合ッ!」
広場の中心で、ノエルは声を張り上げた。
途端にそこかしこで響いていた剣戟の音がぴたりと止み、隊員たちがノエルの前に整列する。
「休憩時間を五分与える。まずは水分補給、そして痛めた武器を必ず交換すること。そののちに各自、割り当てられた仕事に励むように」
「はっ!」
隊員たちが揃って敬礼した。
直後。
「ああ、なんて凛々しいお姿なのかしら……! 的確な指揮! 麗しいお声! 本当に素敵だわ!」
塀の向こうから、この場には不似合いすぎる黄色い声が飛んでくる。
――あいつは……! あほか! 声量の調節機能がいかれてんのか!?
「あの、隊長、今の声は……」
「どなたかが塀の向こうにいらっしゃるようですが……」
隊員たちのいぶかしげな声を、ノエルは「もう一度言うが!」と、遮った。
「いいな? 各々、割り当てられた仕事に励むように! 以上! さあ、解散だ!」
急かされた隊員たちは、慌てて演習場の出入り口に向けて走り出した。
すかさずセドリックがやってくる。
「さて、お客様は君の熱狂的なファンのようだけれど?」
「知るか。ほうっておけ」
「相変わらず冷たいな」
「セドリック、勘の良いおまえのことだ、もう気づいてんだろ?」
塀の向こう側にいるのが、第二王女であるということ。
そして先日、酒場で会った身なりの良い女と、同一人物であるということに。
「まあね。でも知っているだろう? 僕は僕自身のことと、僕を求めてくる女の子のことにしか興味はないんだ」
――まあ、いい。突っ込んで聞いてこないなら、それはそれで助かる。
「いくぞ、セドリック」
ノエルは踵を返した。
「ああ、すてき……! あのお背中、姿勢、なんて美しいの!」
「――と、おっしゃっているようだが?」
セドリックがくすくす笑う。
「だからほうっておけ。頭のおかしい女の戯言だ」
心底うんざりしたノエルは、完全無視を決め込み、演習場をあとにした。
* * *
「あら、ノエルじゃない。久しぶりね。リュシールと結婚するんですって?」
セドリックと別れ、所用を済ませに南の塔へと向かった際に、声をかけられた。
思いも寄らない相手に、ノエルはつい「マジか……」と、小さく声に出す。
「アナイス様」
反射的にその場でひざまずく。
「ご帰還されていらしたのですね」
「昨日からね。しばらく滞在するつもりよ」
妖艶に微笑む女は、アナイス・ド・ラグランジェ――いや、今はアナイス・ドイトリア・ド・ラグランジェか。
近隣の国、ドイトリアの王太子に嫁いだ、ラグランジェ王国の第一王女――つまりリュシールの姉だ。
彼女の背後には、お付きの侍女らしき女がふたり、立っている。
ノエルは頭を垂れたまま微笑んだ。
「お久しぶりです、アナイス様。あいかわらずのお美しさに、一瞬、息をするのを忘れましたよ」
「ふふっ、あなたはあいかわらずうさんくさい笑顔をしているのね、ノエル」
顔を上げなさい、と、アナイスの細いひとさし指がノエルの顎にあてられる。
「その笑顔の下に、いったい何を隠しているのかしら?」
「心外です。日々、真面目に仕事に取り組んでおりますよ」
「ああ、たしか出世したのよね?」
「おかげさまで。近衛隊隊長にとりたてていただきました」
「ならばもう、以前のようにわたくしだけの護衛を務めてもらうことは叶わないのね。ふふっ、悲しいわ」
――なーにが悲しいだ、この悪女め。
ノエルは内心で「けっ」と毒づいた。
ノエルより三つ年上のアナイスは、可憐な容姿のリュシールとはまた違う、艶麗で大人びた美貌の持ち主だ。
国内外の貴族の子弟と数々の浮き名を流したあげく、三年ほど前に隣国へ嫁いでいったが、それまでの二年間、彼女の専属護衛はノエルが担当した。
だからこそ知っている。
彼女の底意地の悪さも、食えない性格であることも。
そしてそのような性質の彼女であるからこそ、ノエルの本性にもそれとなく気づいているようなのだ。
「まさかあなたがリュシールと婚約するなんてね」
立ちなさい、と命じられそのとおりにすると、アナイスが身を寄せるように近づいてきた。
「わたくしの誘いにまったくのってこなかった理由がようやくわかったわ」
小さく手招きをされ、「なんでしょう?」と、身を屈める。
「ロ・リ・コ・ン」
耳元に息を吹きかけるように言われれば、反射的に身が震えた。
「あら、感じちゃった?」
ふふっと、勝ち誇ったように目を細める。
「あの子、あなたより五つも年下でしょう? まるで子供じゃない。それであなたみたいな悪い男が満足するとはとても思えないわ。それともやはりあなたはロリコンで――きゃっ……!」
遊ばれ、苛立ったノエルは、黒い手袋をはめた右手で、アナイスの背筋をなぞった。
「な、なにをっ……」
激しく身をよじった彼女は、よろけて転びそうになった。
その腰に手を回し、強引に抱き寄せる。
――俺で遊ぼうってか? なめるのもたいがいにしろよ。
「ああ、危ないな。大丈夫ですか?」
気づけば互いの吐息が混じる距離にいた。
「そのように背中が露わになったドレスなどお召しになって……どうぞ背後にお気を付けください。でないとこうして悪い男に狙われてしまいますよ?」
言いながらさらに背筋をなぞれば、アナイスは頬を赤くしながら口をぱくぱくした。
百戦錬磨の彼女といえど、まさかノエルに反撃されるとは思ってもいなかったのだろう。
「どうなされたのです? 頬が赤い。まさかこの私のことを意識してくださっているとでも?」
「だ、だったらどうだというの?」
負けじと挑むような眼差しを向けてくる。
「光栄ですね」
「あなた……断りもなくふれるなんて、やはり悪い男ね。それも、とびきりの」
アナイスはほっそりとした手で、ノエルの耳元をくすぐるようにしてきた。
――やっぱりな。こういうことに慣れてやがる。
「……ねえ、今からわたくしの部屋に来ない? あの頃のように、楽しい時間を過ごしましょうよ」
「悪意のある言い方ですね。どなたかに聞かれでもしたら、誤解されてしまいますよ?」
「したい者にはさせておけば――あっ……」
彼女の手をつかみ、それに「ちゅっ」と音を立てて口づける。
「失礼。美味しそうだったので、つい」
口づけたまま視線を流せば、そこには彼女の潤む瞳があった。
「で? 誤解したい者にはさせておく、と?」
「ええ……そうね。誤解されたのなら、それを真実にしてしまえばいいわ」
「真実?」
「わたくしを抱かせてあげる、と言っているのよ」
「一介の騎士である私に、ドイトリア王家と戦争をしろとおっしゃるのですか?」
「さすがにこわい? けれど大丈夫よ。わたくしが何をしたって、夫は何の興味も持たない――」
その時だった。
「そこで何をなさっているの!?」
背後から割って入ってきた叫び声に、ノエルははっと息を飲んだ。
「ノエル様も、お姉様も……! そこで何をなさっているのよ!!」
――マジか。
即座に背後を振り返ると、蒼い瞳と金色の髪が視界に飛び込んできた。
たちまち正気に戻った。
そこには、両の拳をわなわなと震わせるリュシールが立っていたのだ。