第三十四話(最終話) ハッピーエンド
「……しかし、よかったです。陛下がすんなりお認めくださって」
薔薇園の入り口で抱き合ったまま、ノエルがそっと話しかけると。
「ええ、今度はすぐに公にしてくださるそうです」
顔を上げたリュシールは、気恥ずかしそうに微笑んだ。
「とにかく、出来る限り早く、婚約の儀を執り行えるよう希望しましょう。そして結婚式だ」
「わたくしからも父にお願いしておきます」
「あなたは純白のドレスを着て、金色の髪をこうして花で飾って、そして私の妻となるのです。……病めるときも健やかなる時も、死が二人を別つまで、私たちはともに生きていく」
「素敵……」
リュシールは感慨深げにうなずいた。
「もう一度、今度はあなたに誓いますよ。このノエル・ド・アストレイ、あなたのよき夫となり、あなたを幸せにするべく、精一杯努力することを」
金色の髪のひと房を手に取り、そこに口づけを落とす。
「あなたを悲しませることは決していたしません」
するとリュシールの顔から、急に笑みが消えた。
「それは……本当ですか?」
――ん?
「ノエル様、今のお言葉に嘘はございませんね?」
落ち着いた声音に、すっと伸びた背筋。
リュシールはやけに真剣な面持ちで、ノエルを見つめてくる。
「え、ええ……もちろん嘘はありませんが」
「ということは、金輪際、悪い遊びはしないと誓ってくださる、ということですね?」
ノエルの思考が一瞬、凍り付いた。
「悪い遊びとは……つまり?」
「女遊びに、ギャンブルですわ」
リュシールの目が爛々と輝く。
「シャルマンでしていたような遊びを、今後絶対にしない、と誓ってくださいますか?」
「そ、それはもちろん」
もとよりそのつもりだった。
何より望んだ彼女を手に入れたのだ。
だから彼女を悲しませるような、今までのような生活はしない、と。
けれど『絶対に』と念押しをされると、なんだか尻込みしてしまう。
「絶対に、ですわよ」
さらに強調される。
「絶対の、絶対の、絶対に! ですわよ? 決して浮気などしないと誓ってくださいませ」
「ええ、もちろんそのつもりですが……ええと、絶対、ということは、一度も、ということですよね?」
念のため問うてみると。
「もちろんですわ」
真顔で即答された。
「ちなみに浮気とは、どこからを指すのでしょう? たとえば食事は? 腕を組むことは?」
「なぜそのようなことを聞くのです」
ぎろりと睨まれる。
「い、いえ、世間一般的にはどうなのかと、少々気になっただけで……! いや、もちろんそのようなことをするつもりは一切ありませんが……!」
――こ、こええ。
突き刺さるような青い視線に、背筋が凍り付いた。
「浮気は、決して許しませんわよ?」
リュシールが、にこりと不適に笑う。
「もしそのようなことがあったら、わたくし、いったい何をしてしまうのか……ああ、自分が自分でおそろしいわ!」
――って、本当に何かやらかしそうだよな、こいつ。
身の危険を感じて、ノエルの肌がぞくりと粟立った。
「お願いですわ、ノエル様。わたくしを犯罪者にしたくなければ……ね? どうか一生、わたくしだけにしてくださいませ」
「ご、ご心配なく。もちろんあなた以外に興味はありませんから」
とりあえず、この話題は終わらせよう。
でなければ自分がどんどん不利な状況に陥っていくような気がした。
「では、まいりましょうか……」
額に冷たい汗をかきながら、ノエルはにこりと微笑んだ。
* * *
「じゃあ、ノエルの――っと、シャルマンの婚約成立に乾杯!」
とある日の夜。
近衛隊での勤務を終えたノエルは、シャルマンに変装し、セドリックとともに例の酒場を訪れていた。
先日、リュシールとの正式な婚約式を終え、結婚式の日取りも決定した。
それらを全方位に向けて告知したため、いよいよ正式に祝うことができると、セドリックに誘われたのだ。
「ここに来るのもずいぶん久しぶりだね。君ってば、すっかりおとなしくなっちゃってさ。まったく、つまらないな」
「しかたねえだろ。仕事に私的に、いろいろ忙しいんだ」
「まあ、相手が王女殿下ともなるとね」
「おまえ、知ってたか? 結婚って、アホみてえにやることあるんだぞ……。マジ結婚はやべえ。気をつけろ」
ここ最近、ノエルはとにかくげっそりしていた。
近衛隊での激務に加えて、結婚に関するあれこれ――たとえば互いの親族への挨拶や、式の日取り決め、当日の衣装や装飾品選びなど、短期間のうちにやらなければいけないことが山積みで、ゆっくり休まる暇がまったくないのだ。
「まじで俺、過労死するかも」
「でも、幸せそうだ」
セドリックはワイングラスを目線の高さまで持ち上げた。
「うらやましいよ」
乾杯、と、もう一度グラスを合わせてくる。
「しかし今日、よく付き合ってくれる気になったね。そんなに忙しくしているのに」
「息抜きだ」
素っ気なく応えたノエルだったが、本当は違う。
リュシールとの件で何かと話を聞いてくれたセドリックに感謝の意を示そうと、今夜の誘いに乗ったのだ。
だから今夜の酒代はすべて、ノエルが持とうと考えている。
「で、どうなの? 婚約生活は」
「今のところ何も変わらねえな」
「え……まさかまだ抱いてないなんてことは」
「そんな暇がねえからな」
正直に明かせば、セドリックは驚愕に目を見開いた。
「まさか、君が……? どうしたっていうんだい? 今までこの店を出た途端に相手の服を脱がせてるんじゃ……ってくらいに手が早かったのに」
「そんなわけあるか。それに、それは火遊びの話だろ?」
「それはそうだけれど、まさかどこか身体の具合が悪いとか? ……ああ、もし盛り上がる薬が必要なら、譲るけど?」
「アホか」
今の自分は、腹を空かせた狼だと、ノエルは考えている。
しばらく断食しているおかげで空腹の絶頂だが、つまみ食いをする気はない。
なぜなら腹が減れば減るほど、獲物を口にした時の感動や旨さが増すからだ。
「出所の知れない媚薬なんて使ってたまるか。せっかくとことん味わおうと思ってるのに、正気でないなんてもったいないだろ?」
知らず、ノエルの唇の片端が持ち上がる。
「これは……彼女も覚悟が必要だな」
セドリックは呆れたように笑った。
「で、今日のこと、彼女にはなんて?」
「言ってない」
「えっ」
「わかるだろ? シャルマンの姿でこの酒場に行くなんて言ったら、どうなるか」
先日、浮気は決してしないと約束させられたノエルだ。
もとよりそのつもりだが、久々、シャルマンの姿でこの酒場に滞在しているとリュシールが知ったなら?
とんでもないことになるのは火を見るよりも明らかだ。
――まあ、女遊びやギャンブルは、いつだってこの酒場から始まっていたからな。
疑いたくなる気持ちも、理解できるのだが。
「とにかく、騒がれるのも面倒だからな。今日のことは絶対に黙っておけよ?」
「そ、それはもちろんそのつもりだけれど……」
どうしてかセドリックは、急に視線を泳がせ始めた。
「おまえ、まさかすでに言っちまったんじゃねえだろうな?」
「ないない! 言ってない!」
「じゃあなんなんだ」
「いや、向こうから熱い視線を送ってくる美女がいてさ」
――美女だって?
「そういうことは早く言え。どんな女だ?」
ノエルは顔を上げた。
「どこだ」
「あっちだよ」
ここにリュシールはいなくとも、もちろん浮気をするつもりはない。
が、美女と聞けば、興味が出る。
「ワインをおごるくらいは浮気じゃねえよな?」
「――いいえ、浮気よ」
背後で響いた声に、ノエルははっとした。
――まさか。
嘘だろ? というか、どうか絶対に嘘であって欲しい!
そう願いながら、セドリックの視線をおそるおそるたどる。
そして振り返った瞬間。
――なんでばれた……!
ノエルは絶望した。
全身から血の気が引き、卒倒するかのような感覚に襲われた。
「なぜここに……」
「なぜ? あなたのあとをつけてきたからに決まっているじゃない」
腕組みした彼女――リュシールは、鬼のような形相でこちらに歩いてきた。
「ちょっ、待て、違う。これは……そう! セドリックが俺たちの結婚を祝ってくれるって言うから」
「なぜこの酒場に来る必要があるの? しかもシャルマンの姿で」
「いや、セドリックに指定されて……!」
「こんばんは、リュシール殿下。いや、たしかにこの酒場を指定したのは僕ですが、あくまで二人で食事をしようと思っただけなのです。まさか彼がシャルマンとして登場するとは思わなくて……しかもほかの女性に興味を示すなんて」
「って、おまえ……!」
どうやらセドリックは、ノエルを売って、自分だけは助かるつもりらしい。
「聞こえていたわ。どんな女だ? ですって?」
「いや、それは……!」
「ワインをおごるくらいは浮気じゃない、ですって?」
「いや、だからそれは……!」
やばい。これは相当にやばい。
ノエルは焦った。
これほど焦ったことはない、というほどに、とにかくとんでもなく焦っていた。
「それはついノリで言っただけで、本当にそう思ってたわけじゃ――」
「騒がれるのも面倒だから、今日のことは絶対に黙っておけ――先ほど、そうも言っていたわね?」
――って、聞いてたのかよ!
やばい。本当にやばい。やばい以外の言葉が浮かんでこないくらいに、やばい。
ノエルはテーブルに肘を突き、頭を抱え込んだ。
「いや、マジで違うんだ……ただうっかり言っただけで!」
「うっかり? ということは普段、そう思っているってことよね? それをうっかり口にしてしまったと?」
「いや、そういうわけじゃねえ!」
「あなたってば、本当にクズなんだから……! だいたい、誘われたからって、いまだにここに来ようと思うのが信じられないわ! いったいどういうつもりでシャルマンに変装したの? 女性を席に座らせて、ワインをおごるつもりでいたの? それが浮気じゃないですって? いいえ、浮気よ、浮気! 立派な浮気だわ!」
「って、発言しただけでまだ何もしてねえじゃねえか!」
「わたくしが現れなければそうしていたでしょう!」
「いや、だからそれは冗談で言っただけで、本当にそうするつもりじゃなかったというか……」
――頼む、誰か俺を助けてくれ!
すがるようにセドリックを見たが、彼はまったく頼りにならなかった。
ワインをあおりながら、リュシールの説教に、うんうん、とわざとらしく頷いている。
――味方がいなすぎてつらい!
その時だった。
「リュシール殿下? こちらのお方は……?」
彼女の背後に、侍女らしき女性がやってきた。
初めて見る顔だ。
ノエルとシャルマンが同一人物であることを、もちろん知らないのだろう。
怪訝そうな顔で、ノエルのことを見ている。
「ああ、紹介するわね。このクズ男はね、シャルマンといって、ノエル様なの」
「え?」
説明が雑すぎだ。
「だから、クズなシャルマンだけれど、ノエル・ド・アストレイ様なのよ」
いい加減、クズクズ、うるさい。
「ええと……申し訳ございません、理解ができなくて……」
侍女は首をひねった。
「つまりね、ノエル様が変装をしてシャルマンを名乗って……って、ああ、神様、どうすればいいの? わたくしの愛おしい婚約者がクズ過ぎて……! もうどうしていいのかわからないわ!」
突如、リュシールがわあっと泣き出した。
「いや、情緒不安定すぎるだろ……」
「誰のせいだと思っているのよ!」
噛みつくように怒られ、いよいよノエルは降参する。
「わかった、謝る。本気で謝る。――申し訳ありませんでした! もう二度とこのような真似は致しませんので許して下さい!」
――って……まだたいしたこともしてねえのに、なんでこの俺が謝らなくちゃいけねえんだ!
不満を抱きながらも、テーブルの上に両手を付き、深々と頭を下げる。
するとセドリックが歌うように言った。
「いいなぁ、幸せそうで。まったく、羨ましいよ」
――ちくしょう……あとで覚えてろよ。
セドリックは、明日の近衛隊の訓練でしごきまくる。
そしてリュシールは、今夜、ベッドの上で、これでもかというほど泣かしてやる。
そう決意して、ノエルは立ち上がった。
「さて、もう謝ったからいいよな?」
これで終わりだ、とばかりに両手をぱんっと叩いた。
「なっ……謝ったからって、わたくしの怒りがおさまったとでも――」
「もうしない。ここにも来ない。この先、俺が抱くのはあんただけだ」
「そ、そんなこと言われても、許さないんだから……!」
と言いつつ、ノエルのまっすぐな眼差しを受け、戸惑っているのだろう。
「そんなこと……そんなこと言われたって……」
不満げにしながらも、声が次第にやわらいでいく。
「ってことで、今夜は俺んちだ」
ノエルはリュシールを軽々抱き上げた。
「えっ……どういうこと!?」
「せっかくあんた自らここまで来てくれたんだ。あんたの不満はすべて、ベッドの中で聞いてやる」
ノエルは階下に向かって、早足で歩き出す。
「セドリック、またな」
「くれぐれもお幸せにね」
「って、だめよ、シャルマン、止まってちょうだい……!」
リュシールはじたばたと暴れて抵抗してきた。
「なぜ」
「だって、そんなことになったら……!」
うつむく彼女の頬が、朱に染まる。
「もっとあなたのことを好きになって、きっと今日のことも咎められなくなってしまうから……」
「――……っ!」
――こいつは……俺のツボを無自覚に突く天才か!
「悪かった……本当にもう二度としないから、許してほしい」
ノエルは彼女を抱き上げたまま、酒場の外に出た。
「俺にはあんただけだ。……な? 信じてくれないと、困る」
「そんな……急にそんな弱気な態度をとられたって……わたくしは……」
空には満天の星。
もう幾度となく見た光景だ。
けれど今、彼女とともにあれば、いつもよりも美しく見えるような気になってくるから不思議だ。
「頼む。あんたが、ほしいんだ」
彼女の首元に顔をうずめれば、柔らかな花の香りがした。
なんて清らかな香りなのだろう。ノエルの――ノエルだけの花。
「もうずっと我慢した。あんたを愛しく思えば思うほど抱きたいと思うのに、だ」
けれど。
「そろそろ限界だ。……俺に、あんたをくれないか?」
するとリュシールは、ノエルの首に両手を回し、ぎゅうっと抱きついてきた。
「……頼むから、断らないでくれよ?」
こくり。
やがてうなずきが返ってくれば、ノエルはほっと安堵の息を漏らした。
彼女が自分を受け入れようとしてくれていることが、単純に嬉しかった。
――大切に、する。
つい先ほどまで酒場にいた分際で、何を言っているのとリュシールには怒られそうだけれど。
ノエルだけの花である彼女のことを大切に――これ以上ないくらいに大切にしようと、この時、ノエルは思ったのだ。
* * *
次の日の朝を、二人はアストレイ家のノエルの部屋で迎えた。
そして三か月後には、結婚。
国を挙げて祝福される中、二人は夫婦となり、ひとつの未来に向けて歩き出したのだ。
その幸せは、いつもでも、いつまでも。
終わり
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