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第三十一話 今夜はベッドで

「ノエル様、お願い……! 行かないでください!」


 ――は?


 その時、予想外に引き留められて、ノエルは混乱した。


 ――なぜだ。

 

 激しく戸惑っている間に。

「お願い……!」

 ノエルの腕にリュシールがすがりついてくる。


「あなたは……またそういうことを……」


 途端に頭が痛くなった。

 ようやく決意して、彼女と離れる一歩を踏み出したというのに、これでは水の泡ではないか。


「なぜそのようなことをするのです。たしかに私はノエルだ。けれどシャルマンでもあるんですよ」

 振り返ったノエルは、彼女の華奢な両肩をつかんだ。


「どうか一時の感情で動かないでください」

「わかっております。あなたとシャルマンが同一人物だと……ちゃんとわかっておりますわ。けれど、それでもあなたのことが好きなのです……!」

「――は?」


 嘘だろ? ノエルはもう唖然としていた。


「シャルマンでも、好き、だって……?」


 あの女好きでギャンブル好きの、遊び人を?

 にわかに信じがたかった。


「正気ですか? あなたが常々クズだと言っていた、あの男ですよ?」

「わかっております」

「あの女遊びとギャンブルが趣味の、あの男ですよ? それが私なのですよ?」

「ええ、重々承知しておりますわ」

「それなのに、好き、だと……?」

 こくり。リュシールはしっかりと頷く。


「知った当初はたしかに戸惑いましたわ。けれど、どうしてもノエル様への気持ちは消せなくて……そのうちにあなたの一部であるシャルマンのことも、愛おしく思えてきてしまったのです」


 いや、狂いすぎだろ、それ。

 さてどうしたものかと、ノエルは頭をもたげる。


「本当は、わたくしから婚約破棄を願うなど、したくなかったのです。……けれど、ノエル様はわたくしとの結婚を望んでいないと思っていましたし、何よりわたくしの本性を知られて、とても婚約を続行してほしいとは言えなくて……」


 いやいやいや、正気か?

 ノエルは整えた髪をもう一度乱すと、例の伊達眼鏡をかけてみせた。


「おい、見た目に惑わされるな。これだぞ? シャルマンだぞ?」

「だからそれでも……! それでも好きなんだもの、しかたないでしょう!?」


 ノエルの姿になれば、今までどおり、かしこまった言葉遣いで。

 シャルマンの姿になれば、自然と互いに気安い口調になる。


 ――まじか……。


 ノエルは眼鏡を外し、髪を整えた。


「あの、もしノエル様がよろしければ……」

 そこまで言って、リュシールは口を噤んだ。


 言いたいけれど、言えないのだろう。

 もじもじした様子で、「あの……その……」と、何度も口を開きかける。


 ――まったく……なんだってんだ、ほんとに。


 なんて自分勝手で、わがままで。

 けれどこんなにも可愛らしい彼女を手放さなくてもいいというのなら、もちろん答えはイエスだろう?


「もう一度、失礼しますよ」

「え……」

 ノエルは再び、リュシールをベッドに押し倒した。


「ノエルさ――」

 今度はいきなり深いキス。

 声も吐息も奪って、混ざり合って。


 ――ああ、このままむちゃくちゃに抱きてえ。


 衝き上げるような欲求をおさえ、一度、唇を離した。


「結婚してください」


 ノエルは願った。

 手放さなくていいのなら、もう遠慮はしない。


「ノエルであり、シャルマンでもある私と、どうか結婚してください」


 リュシールは驚いたように目を見開いた。

「わたくしで……本当にわたくしでよろしいのですか?」

「もう泣かないでください。私は、あなたがいいのです」

「わたくし、ですよ? あの酒場で、シャルマンの前で見せたあの姿の……あのわたくしです」

「そのあなたがいいのですよ」

 ノエルの口元は自然と弧を描いていた。


「リュシール・ド・ラグランジェ殿下。お願いします。どうか私の妻になってください」

「ノエル様……」

「返事は?」

「はい、もちろん……こんなわたくしでよければ、どうか、どうかあなたの妻にしてください……!」


 その返事を聞いた刹那、ノエルの全身から力が抜けた。

「ああ、よかった……」

 彼女の横に、ごろりと転がる。


「ノエル様? どうかなされました?」

 仰向けに寝るノエルをのぞき込むように、リュシールが身を起こした。


 ――まさかこんな結末になるとはな……。


「あなたを手放さなくていいなんて、夢のようだ」


 彼女の金色の髪のひと房を、いたずらに手に取る。

 やがて後頭部に手を添え、そのまま引き寄せた。


 今度は優しく、そっとふれるだけの口づけを。


「……このまま、あなたを抱かせてください」


 真剣に願えば、彼女はびくりと身体を震わせた。

 その反応を受けて、ノエルに火が付く。


 ――めちゃくちゃに可愛がって、どろどろに愛して。


 そうしてもっともっと、ノエルのことを好きになればいい。

 そのようなことを考えながら、彼女のドレスの背中のボタンに手をかけた。


 けれどすぐにさっと身を退かれた。

「あの、ノエル様……ですが、大きな問題が二つ、残っておりますわ」

「なんでしょう」


 逃がすものかと身を起こして、腰を抱こうと手をのばす。

 けれど、またしても身体をそらされた。


「まず一つ目。お兄様の件です。わたくしとノエル様の婚約を破棄するかもしれない、と言っていた件なのですが……」

「そのようなことはあとで考えましょう」

「ですが」

「なんなら既成事実を作ってしまえばいい。今夜、この場所で」

 ノエルはリュシールの腰を抱いた。


「お願いだ、今は私に集中してください」

「で、ですがもう一点のほうがもっと重大な問題で……!」

 ノエルに捕らえられながらも、リュシールはまだ抵抗を試みる。


「わたくし、婚約破棄を父に願ってしまったでしょう? そもそも父からは、ノエル様との婚約を破棄しろとは言われていなかったのですが……」

「え? そうなのですか?」

 てっきり王とオリヴィエの両方から婚約破棄を命じられていると予測していたのだが。


「ということは、婚約破棄を匂わせてきたのはオリヴィエ殿下だけで、陛下は関与されていない、と?」

「ええ。父は、わたくしが破棄を願った際、本当にそれでいいのか? と、心配してくださったくらいで……」


 となると、闘わなければいけないのは、オリヴィエただひとりか。


「あの、違うんです。問題はそこではありません」

 リュシールはより神妙そうな顔をした。


「わたくし、大変なことに気付いたんです。婚約破棄をしたことで、今、ノエル様は決まったお相手がいない状況となっていますでしょう?」

「まあ、そうですね。もともとあなたのとの婚約は内密でしたから、破棄となったことを知っている者もおりませんが」

「ですがノエル様のお父さま――アストレイ侯爵はご存知です」

「でしょうね。その話を父から聞かされたくらいですし」

「こうしてはいられません……!」

 いきなりリュシールがベッドから降り、立ち上がった。


「今すぐお父さまに婚約破棄の取り消しを願って、アストレイ侯爵にも報告しなければ……!」

「えっ、今?」

 なぜ?

 ノエルは目をぱちぱちした。


「だって、もし侯爵がノエル様に新たなお相手を見つけてしまっていたら大変ですもの!」

「いや、そんなことはありえません。安心してください」


 しかしリュシールは拳を握る。

「安心なんてできません! 今すぐ正式に婚約して、わたくしたちの未来を盤石なものにしておかなければ……! だって、もしノエル様とどなたかのお話が進んでしまっていたら――ああ、想像しただけでもおそろしいわ!」

「ですからそのようなことは――」

「ないとは言い切れませんわ!」


 ――って、まじか……くそ面倒くせえ。


 ノエルは意識が遠くなるような感覚に襲われた。

 あいかわらずの極端な思考回路に、ついていけそうにない。


「殿下、あなたの心配事はわかりました。ですが今夜はもう遅い。明日の朝一番に、王への謁見を願いましょう」

 ね? と、ノエルは彼女の手を握った。


「心配いりませんわ。父はまだ起きている時間ですから」

 って、そういう問題ではない。

 たとえ王が了承したとしても、臣下であるノエルが、夜更けに王を訪ねることなどしたくないのだ。


「殿下、今はあなたとわずかも離れていたくないのです。ようやくあなたと想いを共にすることができたんだ。今夜は、あなたと一緒にベッドの中ですごしたい」

 ありったけの色香を使い、リュシールの耳元で囁いた。


 けれど彼女は、ノエルの腕をぐいと引っ張り、起立するよう促してくる。

「ならば父のもとに言って、婚約破棄の破棄を願ってからにしましょう!」

「あー……なるほど、そういう感じですか……」


 ――って、さすがに色気がなさすぎるだろ。


 燃え上がっていたノエルの欲だったが、途端に冷めた。

 それはもう、あっつあつのフライパンを、冷水の中に突っ込んだ時のように。


 ――先が思いやられるな……。 


 ノエルは眉間に手をやり、深い溜息を吐いた。

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