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第二十七話 逃げる彼女

「リュシール殿下!」


 大声でリュシールの名を呼んだノエルに、皆の視線が集まった。

 けれどそんなことはどうだっていい。

 今、ノエルの目に映るのは、リュシールただひとりだ。


「あ……」

 こちらに向けられる青い瞳。

 ノエル様、と、彼女の唇が動いたような気がした。


 数秒、目が合う。

 周囲の音を掻き消すように、自身の心臓の音が大きくなるのを感じる。


 しかし次の瞬間、ノエルは胸が痛くなった。

 リュシールがどこか苦しげに唇を噛み、ノエルから顔を背けてしまったからだ。


 ――また、だ。


 また、あの表情。

 困ったような、悲しいような、苦しいような。

 何かに怯えたようなあの顔をしたあげく、リュシールはノエルに背を向けてしまう。


 ――って、逃がしてやるかってんだ。


 物理的に距離を無くしてやろうと、ノエルは彼女へ向けて歩を進めた。


 けれどその時、邪魔が入った。


「やあやあ、ノエル! 君が来るのを僕も、父上も待っていたんだよ」

 急に声をかけてきたのはオリヴィエだ。

 気づけば王も玉座の横に立っている。


「こうして顔を合わせるのは久しぶりだな、ノエル。よく来てくれた。今宵は仕事を忘れ、ゆっくり楽しんでいってくれ」

「陛下……お招きいただき、光栄でございます」


 ノエルは玉座の前に進み、即座に片膝を付いた。

 王に声をかけられた以上、そちらを優先しなければならない。

 左胸に手をあて、頭を垂れ、最大級の礼を取る。


「ノエル……アストレイ侯爵から聞いたと思うが、娘とのこと、君には謝らなければいけない。まあ、その件についてはまた別の機会にでも……」

 と、王が歯切れが悪そうに話しているうちに、リュシールは離れたところへ移動してしまった。


 ――くそ。タイミングが悪すぎだ。


 ノエルのことをよほど警戒しているのだろう。

 セヴランや他の貴族と談笑しつつも、リュシールはちらちらとこちらを気にしていて。

 けれど話がしたくてノエルが近づこうとすれば、すかさず離れていってしまう。


 さらに誤算だったのは、オリヴィエの存在だ。

 どうしてなのか、彼はことあるごとにノエルに絡んできた。


「一緒に飲もうじゃないか、ノエル!」

「殿下……ですが、クリステル殿下とお話中では?」

「なんだって? 僕に話がある? しかたないな、なら僕とノエルは向こうで――」

「殿下、クリステル殿下がダンスをご一緒に、とおっしゃられておりますよ?」


 この夜会でクリステルをエスコートするのは、オリヴィエと決まっている。

 それなのになぜか、オリヴィエは逃げ回るようにこちらにやってくるのだ。


 ――どいつもこいつも、わけがわからねえな。


 結局、その晩、ノエルがリュシールに声をかけられるチャンスは、二度と巡ってはこなかった。


 ――ならば明日だ、明日!


 不幸中の幸いというべきだろうか。

 セヴランとクリステルの滞在期間中、王族全員の詳細な行動予定が、近衛隊に知らされている。

 そのためリュシールの居所を突き止めることも、声をかけることも、そう難しくないと思えた。


 そう、この時までは、明日こそはすぐに彼女をつかまえられると、そう信じていたのだ。


   *   *   *


「殿下、今、お時間少々――」

「リュシール殿下は陛下からお呼び出しをいただいておりますため、お時間がございません」


 近衛隊での勤務前、王宮内の外廊下で彼女を待ち構えたノエルだったが、侍女と話している間にリュシールは姿を消してしまった。


 ならば昼休憩のタイミングでと彼女の部屋の扉を叩いたが。

「今からセヴラン殿下が、リュシール殿下のことをお迎えにいらっしゃる予定です。ほら、あちらにお見えになられましたわ」


 さすがに断念せざるを得なかった。


 ならば勤務後だ。

 セヴランたちとの晩餐を終えたリュシールが、部屋に戻ってくるのを扉の前で待っていたノエルだったが。

「申し訳ございません、殿下は少々、ご気分をお悪くされてしまいまして」


 なんでもワインを飲み過ぎたらしいリュシールは、侍女たちに抱えられるようにして帰ってきた。

 これではとても話をしたいと願える状況じゃない。


 ならば明日こそは、と、またしても決意を新たにしたノエルだったが、さすがにこの状況が七日も続けば認めざるを得なかった。


 ――あいつ……俺と話をする気がまったくねえ!


 というか、絶対にノエルと話をするものかと、あちこち逃げ回っている。


「さて、どうする? このまま終わりにするつもりかい?」


 近衛隊での勤務後、ノエルの執務室で。

 今日もまったく話をすることができなかったと憤るノエルに対し、セドリックが問うてきた。


「しかし、なぜ彼女はここまで君のことを避けるんだろう?」

「あの皇太子に惚れたからだろ」

 口に出すだけで、気分が悪くなる。


「……でも、ほんとうにそうなのかな?」

 セドリックが、ノエルの執務机の端に腰を下ろした。

「僕にはそうは思えないけど」


「何が言いたい」

 椅子に座るノエルは、セドリックを見上げるような形になった。


「だって、おかしいじゃないか。あの皇太子に恋をしたのなら、そうとはっきり言えばいい。彼に惚れたから、君との婚約を破棄します、ごめんなさい、で、あとはあの男と結婚してハッピーエンドだ。わざわざ君から逃げ回る必要もない」

「……たしかに」

「てことは、何か違う理由があるんじゃないのかい?」


「違う理由……」

 けれど、ノエルには思い当たる節がない。


「おまえは何だと思う?」

 逆に問うてみると、セドリックは考え込むように顎に手をやった。


「そうだな……例えば、君の過去を知ってしまった、とか?」


 侯爵家の長男ではあるけれど、十五になるまで市井で生活をしていたノエルだ。

 その点を気にする者も、たしかにいるだろう。


 しかし。

「違うな。前にあの酒場で――シャルマンの姿で聞いたことがある」


 当初は自分との婚約をリュシールから破棄させたいと願っていた。

 だからこそ占い師を気取り、シャルマンの口からノエルの過去を話してきかせてみせたことがあったのだ。


「あいつはとうに知ってたよ」

「君の生い立ちを?」

「まあ、隠しているわけでもねえからな、知っていてもおかしくねえんだが」


「で?」

「まったく気にならない、と」

「へえ」

「それどころか、その生活があってこそのノエル様だ、と言い切った」

「なるほど、それは君にとっては嬉しい言葉だね」


 図星を付かれて、ノエルは黙った。

 その件もあって、リュシールに惹かれていった事実は無視できない。


「じゃあ、なんだろう……たとえば君の素行の悪さを知ってしまった、とか?」

「素行の悪さって、つまり俺がシャルマンとして遊んでいたことか?」

「そうだよ、それで君に嫌悪感を抱くようになってしまって」

「ということは、俺がシャルマンであるということがばれた、ってことだよな?」

「ということになるね」


「……まさかそんなこと」

「……いや、まさかね」


 ノエルとセドリックは顔を見合わせた。

 部屋の中に漂う静寂が、やけに耳に痛い。


「……まさか、な」

 ノエルがぽつりと呟くと。

「まさか、ね」

 セドリックがにこりと笑った。


「いや、それはありえねえ。知ってるのはオリヴィエ殿下ぐらいだが、あの男が告げ口なんてつまらない真似をすると思うか?」

「告げ口をするくらいならもっと劇的な場面を用意して、面白く演出するだろうね」


 彼はそういう面倒な男だ。


「じゃあ殿下自ら気づいたとか」

「あいつの目は節穴だぞ。ここまで気付かなかったのに、今さらそれもねえだろ」

 ないない、とノエルは自己解決する。


「じゃあ、ほかに何があるんだい?」

「いや、何も思いつかねえな」

 ということは。


「やっぱりあの男に惚れたんだろ。で、気まずくて、それを俺に言うことができねえから、とにかく婚約破棄して終わりにしちまえって腹だ」


 そう考えたらまたしても苛ついてきた。

 ふざけるな。このまま思い通りにさせてたまるものか、と、ノエルは拳をきつく握る。


「もういいかげん、白黒はっきりさせてやる」

「って、どうするつもりだい? 相手は君から逃げ回っているっていうのに」

「会うさ。無理にでも」

「どうやって?」

「あいつの部屋に忍び込む」

「はあ!? 君、正気かい!?」

「俺から逃げようとするあいつが悪い」

「って、まさかそこまでするとは……」


 止めてもきかないことはわかっているのだろう。

 セドリックは溜息を吐きながら首をすくめた。


「くれぐれも大ごとにならないよう祈ってるよ」

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