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第二十六話 婚約破棄の願い

「は……? 今、なんつった?」


 王宮の一室で、父からその話を聞かされた時、ノエルは激しい衝撃を受けた。

 それはまるで頭を鉄槌で殴りつけられたかのような、すさまじい衝撃だった。

 

「……わるい。もう一回、言ってくれ」

 言葉の意味をすぐには理解できなくて、聞き返す。


「だから、リュシール殿下から申し入れがあったのだ。おまえとの婚約を破棄したい、と」


「破棄……? 俺との婚約を?」

 にわかに信じがたくて、またしても聞き返してしまった。


「あいつから……だって?」

「そうだ。どうやらリュシール殿下ご本人がそう望まれているらしい」

「――って、ありえねえだろ!」


 ようやく現状を認識したノエルは、父のジャケットの胸ぐらを両手でつかんだ。

「なぜだ!」


「くっ……ノエル、離せ!」

「なぜそんなことになる!」

「だから離せ! 死んでしまう!」

 いや、今、死なれるのは困る。


「せめて婚約破棄の理由を話してからにしてくれ!」

 ジャケットから手を離せば、父はげほごほと激しくむせ込んだ。


「まったく……少し落ち着け。取り乱しては正常な判断ができぬぞ」

「いいから、早く理由を教えてくれ」

「それが、私にもよくわからんのだ。先ほど陛下に呼ばれて、そこにリュシール殿下もいらっしゃって」


 ノエルとの婚約を破棄したい、と、突然、告げられたらしい。


「そんなの、陛下に――あるいはオリヴィエ殿下に言わされてるに決まってんだろ」

「もちろん私もそう思ったさ。リュシール殿下はおまえとの婚約内定を、ことのほか喜んでおられた。だからこそ何か、そう……婚約を破棄せねばならない政治的な理由でも生まれたのだろう、と」


 だからこそ父は、リュシール本人に問うてみたらしい。「それがあなた様のご意志なのですか?」と。


「そしたらあいつはなんて答えたんだ」

「申し訳ございません、と」

 震える唇で、言葉を紡いで。

「ノエル様には本当にご迷惑をおかけしました。今回の申し出は、わたくしが父に願ったことにほかなりません、と」


「…………っ!」


 ノエルは言葉を失った。

 頭の中が真っ白になって、激しい目眩を覚えた。


 どうやら本当に、リュシール自身が、ノエルとの婚約破棄を望んでいるらしい。

 ――あの、リュシール自身が。


 いったい何が起きた?

 なぜ彼女はそのようなことを望む?

 なぜ急に心変わりをした?

 なぜ?

 なぜ?

 なぜ?

 ノエルの頭の中を、いくつもの疑問符が駆け巡った。


 そして。


 ――ふざけるな。


 すぐさま苛立ちが生まれた。


 あんなにも一方的に婚約を内定させ、あんなにも一方的にノエルのことをつけ回してきたくせに。

 あんなにも一方的に自分の気持ちを押しつけ、あんなにも一方的に迫ってきたくせに。


 ――それなのに、ここで終わり、だと……?


 彼女のことを、こんなにも好きにさせておいて?


「そんなこと、この俺が許すわけがねえだろ?」


 ぽつりと呟いた言葉に煽られ、ノエルの胸中に怒りの炎が生まれた。

 それはちらちらと感情の風に揺られ、みるみるうちに大きくなっていった。


 原因はわかっている。

 というか、もうそれしか思い当たる節がない。


 ――あの皇太子に、一目惚れしたのか。


 うっとりとした表情でセヴランのことを見つめる彼女の姿が、脳裏によみがえってくる。

 頬を薔薇色に染めて、唇を軽く噛んで。

 そう。おそらくリュシールは、セヴランの素晴らしく整った容姿を目にし、たちまち恋に落ちてしまったのだろう。


 ――だからといって、このまま退いてやるかってんだ。


 逃げようとするなら、追いかけてやる。

 どこまでも、この手に彼女を捕らえるまで。


「たとえどれだけ抵抗されたとしても、だ」


 ――後悔するんだな、俺を本気にさせたことを。


 女とは、一夜を共に出来ればそれでいい。

 真面目に交際をするとか、将来を誓い合うとか、そのような面倒事はお断りだ。


 長らくそう考えてきたノエルの、恋愛に対する価値観をがらりと変えたのはほかでもない、リュシールだ。

 だったら最後まで付き合ってもうしかないだろう?

 

「……おい、親父。先に謝っとく。万が一、王族に対する不敬罪で捕まったらすまねえ」

「って、いったい何をする気だ」

「まあ一応、謝ったからな。何が起きても容赦してくれよ。って言っても、上手くやるつもりでいるけどな」

「だから何をする気なんだ! ノエル、答えなさい!」


 さて行くか、と、父の声に応えることなく、ノエルは早足で歩き出した。

「ノエル!? どこに行く!」


 目指すはリュシールの私室。

 彼女の心に、今すぐふれたかった。


   *   *   *


「リュシール殿下は只今、お忙しくしておられます」


 はやる心そのままに、リュシールの私室にやってきたノエルだったが、すぐさま勢いを削がれることとなった。

「本日、アストレイ隊長とお会いすることはできない、とのことです」

 申し訳ございません、と、部屋の扉の前で、侍女が頭を下げてくる。

「お引き取り下さいませ」


 けれどそう簡単にあきらめることはしたくなかった。


「……殿下がお手すきになるまで待つ、と言っても?」

 なんとか食い下がろうとしたノエルだったが。


「申し訳ございません」

 侍女はふたたび頭を下げてくる。


「わずかも――ほんの数分程度のお時間もいただけないのですか?」

「本日はお忙しくしていらっしゃいますので……」

 では、と言い残して、侍女はリュシールの私室の中へと戻っていってしまった。


 ――まあ、しかたねえか……。


 出鼻をくじかれたノエルは、盛大な溜息を吐いた。


 今夜は、王家主催の歓迎式典――セヴランとクリステルを招いての夜会が開催されることとなっている。

 もちろんリュシールも、主催者側の人間として出席の予定だ。

 昼過ぎの今、彼女はそれの準備で忙しくしているのかもしれない。


 ――なら今夜、その夜会でとっつかまえてやる。


 侯爵家の長男として、その場に招待されているノエルだ。

 リュシールと話す機会は必ずあるだろうと、とりあえずこの場はあきらめることにした。


   *   *   *


 やがて、夜の帳が下り、王宮中の燭台に橙色の火が灯る時間が訪れた。


 ――夜会の開始時刻を待ち遠しく思うなんて、初めてだな。


 ノエルは衣装の襟を正しながら、自嘲気味に笑う。


「やあ、壮観だね。君の付き添いとしてパーティーに参加できて嬉しいよ」

 会場に入るなり、セドリックが興奮気味に言った。


 夜会が開催されるのは、王宮内で一番大きな広間だ。

 まぶしい金色の壁に、そこかしこに飾られた高価な絵画やステンドグラス。大理石で作られた暖炉の上には金の燭台や彫刻が並べられ、高さのある天井からは巨大なシャンデリアが下がる。


 広間の中央でダンスを楽しむのは上級貴族たちだ。

 部屋のあちこちに並べられたテーブルの前で、飲食をしながら談笑する者たちも多い。


「……セドリック、とにかくよけいなことはするなよ。ここはいつもの酒場とは違う。遊べる女は皆無と考えろ」

「もちろんわかってるさ。今日の僕は君の護衛のようなものだからね、静かにしているよ」


 と言いつつ、壁際に立つ少女二人に向けて軽く目配せをする。

 途端に彼女たちが、「きゃあっ」と、色めき立った。


「ほら、ごらんになって。アストレイ家のノエル様よ。あいかわらずなんてお美しいのかしら……」

「一曲だけでもいいから、ダンスのお相手になっていただけないかしら」

「まあ、そんな……もしも踊っていただけたなら、それこそ一生の思い出よ」

「近衛隊の正装がとてもよくお似合いね。なんて素敵なの……!」


 今夜、ノエルとセドリックは、近衛隊の正装である黒い隊服――襟や肩に金糸銀糸の刺繍が施された衣装を身に着けている。

 それが目新しいのだろう。

 会場のあちこちから、「素敵……!」だの、「お美しい……!」だの、囁く声が聞こえてきた。


「つまらないな。世のお嬢様方は、侯爵家の長男でありながら、いまだ独身を謳歌する君の話題でもちきりだ」

「夜会に顔を出すのは久しぶりだからな、物珍しいんだろ」

「君にダンスの相手になってほしそうだけど?」

「興味ねえな」

「リュシール殿下以外は、ってこと?」

「そうだ」


 直球で返事をして、会場に彼女の姿を探す。

 本日、ノエルは仕事から外れているが、近衛隊の部下が彼女の警護を担当している。


 ――予定ではすでにここに来ているはずだが……って、いやがった。


 会場の奥は、王族と、ごく一部の上級貴族専用の空間となっている。

 一段高く作られた台座の上には、存在感のある玉座が。

 その近くに、紫色のドレスを着る金色の髪の少女――リュシールを見つけた。


 ――ちくしょう、今日も綺麗じゃねえか。


 客人たちに微笑みかけながら、言葉を交わすリュシール。

 手に握られているのはワイングラスだ。

 アルコールのせいだろう。彼女の頬がほんのり色づいている。


 その様子がやけに艶っぽくて、うっすらと色香を漂わせていて。


 ――気にくわねえな。


 俺以外の男の前で、あんな顔をするなんて。

 激しく気にくわないと、ノエルは早足で彼女のもとへと向かった。


 と、その時、彼女の前にふいに男が現れた。

 ノエルは反射的に足を止める。


「リュシールさま、こちらのワインもとても美味しいですよ。ぜひ飲み比べてみてください」


 セヴランだ。

 リュシールにグラスを差し出しながら、「ね?」と笑いかけている。


「ありがとうございます。いただきますわ」


 やや戸惑ったようにしながらも、リュシールはそれを受け取る。

「そうですわね……たしかに美味しいです」

 ひとくち飲んで、セヴランに薔薇のような微笑みを返した。


 ――なんだ、これ。


 猛烈な嫉妬心に駆られた。


「リュシール殿下!」

 気づけば大きな声で、彼女に呼びかけていた。

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