第二十四話 変化する状況
「殿下、その件については、どうかご内密に」
ノエルは願った。
もしほかの誰かに――とくにリュシールに知られるようなことがあっては困る。
ノエルは自分がシャルマンであることを、この先、彼女に明かすつもりはないのだから。
「もちろん秘密にするさ。でも、興味があるな。おまえはなぜシャルマン・クレールを名乗る? なぜ毎夜、あの酒場に行く? しかもセドリックまで一緒に」
オリヴィエは出入り口付近に立つノエルのもとまでやってくると、人差し指でノエルの顎をくいと持ち上げた。
「おまえがなぜシャルマン・クレールに扮するのか、知りたいな」
にこり。意味ありげに微笑む。
「ただの暇つぶしですよ」
ノエルも負けじとにこりと笑ってみせた。
「おそらく、セドリックもそうでしょう。近衛隊の勤務規定では、プライベートに関する制約はとくにございませんが、あのような場で本名を名乗ることはとてもできません。ですから偽名を使っただけのことです」
「……なるほどね」
オリヴィエは納得していないような、どことなく面白くなさそうな表情で、人差し指を引き戻した。
――って、本当は違うけどな。
ノエルが別人に扮し、あの酒場に通うのは、ただの暇つぶしが理由ではない。
さみしさや、むなしさ、やりきれなさ――自分の満たされない心の内を、どうにか埋めたかったからだ。
九年前、最愛の母を失い、アストレイ家に入ったノエル。
上級貴族の仲間入りをし、王宮に出仕して仕事に励み、地位を授与され、只人では決して手に入れることのできないものをたくさん得たけれど、それでもノエルの心が満たされることはなかった。
だからあの酒場に逃げたのだ。
酒に溺れ、ギャンブルに熱を上げ、女性と夜を楽しんでいる間は、様々な感情を忘れ去ることができたから。
「けれどそれももう終わりです。私はもう、シャルマン・クレールを名乗ることはないでしょう」
気づけばそのような言葉が自然と口から出ていた。
「なぜだ?」
「ようやくみつけたからです」
自分を満たしてくれる存在を。
ノエルが初めて心から欲しいと思えた彼女――リュシールがいるから、もうほかの女と遊びたいとすら思わなくなったのだ。
「なるほどねぇ……」
多くを語らなくとも伝わったのだろう。
オリヴィエはそれ以上、突っ込んで聞いてくることはしなかった。
「オリヴィエ殿下は、リュシール殿下と私との婚約を、破棄されるおつもりですね?」
核心にふれてみた。
するとオリヴィエは。
「……さあ、なんのこと? 僕はそのようなことは考えていないけど?」
くるりと踵を返し、執務机に戻る。
「おまえたちが正式に婚約し、それを公にするのは、再来月の予定だっけ? それまでに何も起こらなければ、予定通りにことは進むんじゃない?」
――この、タヌキが。
ノエルは胸中で毒づいた。
「何も起こらなければ――とおっしゃられますが、殿下が何事かを起こされるおつもりでは?」
「心外だな。僕は兄として、いつだって妹の幸せを願っているけど?」
「では昨日、こちらのお部屋から漏れ聞こえてきた件に関してご説明いただいても?」
「昨日? さて、何のこと?」
「殿下とリュシール殿下のお話の内容です。私たちの婚約破棄に関して――」
と、そこで扉の外から、かすかな物音が聞こえた。
――廊下に誰かいる。
誰に聞かれてもあまりよくない話だ。
ノエルはオリヴィエに視線を送る。
こくり。返ってきた頷きを許可だと受け取ったノエルは、さっそく扉を開けてみた。
するとそこには、リュシールがいた。
「あっ……」
一瞬、目が合う。
けれどすぐさま視線を外された。
「殿下……いつからここに……」
まったくもって気づかなかった。
もしや話を聞かれてしまっただろうか?
そう考えて、はっとする。
――まさか、シャルマン・クレールの名を聞かれたか!?
けれどどうやらその心配はないようだった。
「あの、さっきのお話は……」
呆然とするリュシールに、「ああ」とオリヴィエが応える。
「おまえたちの婚約に関して、ノエルと少々話をしていただけだ」
「そんな……」
つまりリュシールは、昨日、彼女が最も恐れていたことが現実になってしまったと――婚約が破棄になるかもしれない話をノエルに知られてしまったと、衝撃を受けているようだった。
「おはようございます、殿下。こちらにはおひとりで? 侍女はどうなされたのですか?」
とりあえず声をかけてみたが、リュシールはびくっと身体を震わせた。
「あ、あの……」
よほどショックを受けているらしい。
うつむいたまま、視線をあちこち泳がせている。
「殿下、何も心配されることはございません。どうか私の言葉を信じてください」
何があろうと、絶対に破棄などさせるものか。
それこそアストレイの侯爵家パワーを使ってでも、全力で阻止してやる。
そう考えていたノエルだったが、リュシールは消え入りそうな声で呟く。
「ごめんなさい……」
「殿下? なぜ謝られるのです?」
「本当に、ごめんなさい……」
「殿下!?」
リュシールは踵を返すと急に走り出した。
あとを追おうとするノエルの肩を、オリヴィエがつかんでくる。
「まったく……人前でああして走るなんて、まだ一人前の淑女とはいえないなぁ。……ねえ、ノエル? そう思わない?」
オリヴィエは意味ありげな視線ををこちらに向けてきた。
その真意をつかめぬまま、またしてもノエルはリュシールのあとを追うことができなかったのだ。
* * *
その日の午後、ノエルはオリヴィエから新たな仕事を任された。
隣国の皇太子の訪問に伴う、護衛の長――すべての警備の計画立案から指揮までも執る要職に任命されたのだ。
途端に忙しくなったノエルは、まさに仕事に忙殺されることとなった。
そのためリュシールの部屋を訪ねる時間をとることができず、結局、それからの半月弱、彼女に会うことは叶わなかったのだ。
* * *
「はじめまして、アストレイ隊長。これからしばらく、お世話になります」
隣国ノワールの皇太子であるセヴラン・ルイ・ノワール、十八歳は、とんでもなく美しい容姿の青年だった。
艶やかな髪は、黒にも焦げ茶にも見える濃い色。
理知的な目元に輝くのは、紫色の瞳。
顔立ちはどこぞの彫像かと思うほどに整っていて、非の打ち所がない。
身長はそれほど高くはないものの、均整の取れた肢体に、仕立ての良い紺色のジャケットがよく似合っていた。
「ねえ、なんとなくノエルに似ていない?」
隣に立っているセドリックが、こそっと話しかけてきた。
「顔立ちもどことなく、さ。しかも君よりも――いや、とにかく超絶美形だよね」
ちょうど同じ事を考えていたノエルは、密かに「ちっ」と舌打ちをする。
――あいつが好きそうな顔だな。
嫌な予感を胸に抱きながら、ノエルはセヴランの前で膝を付いた。
「ようこそ我が国へおいでくださいました。王立騎士団近衛隊、隊長の、ノエル・ド・アストレイと申します」
「ああ、立ってください。どうか、あまりかしこまらずに話をしていただきたい」
セヴランは「お願いします」と、ノエルと同様に膝を付こうとした。
皇太子という立場にありながら、ずいぶん親しみやすい。
――どっかの皇太子とはえらい違いだな。
「ではお言葉に甘えて」
セヴランを跪かせるわけにはいかないと、ノエルはすぐに立ち上がった。
「アストレイ隊長、聞けばあなたはアストレイ侯爵のご子息だとか。あなたの父君には、何かと世話になっているのですよ」
「そのようにおっしゃっていただき、光栄です」
ノエルの父は、交渉事や商売に長けている。
所領における年貢や地代を元手に、様々な事業を展開、成功させているのだが、とくに隣国ノワールでの商売には力を入れていて、セヴランとも懇意にしているようだった。
と、その時、セヴランの背後から、ひょこりと顔を出した少女がいた。
「お兄様、わたくしのことも紹介してくださいませ」
「ああ、そうだったね。アストレイ隊長、これは私の妹のクリステルです。先日、十四歳になったばかりで」
「こんにちは、アストレイ隊長。どうぞよろしくお願いいたします」
ぱっちりとした目と、ほんのり色づいた丸い頬がなんとも可愛らしい少女だ。
ドレスのスカートをつまみ、膝を折って挨拶をするその姿には、まだ幼さが残る。
「ノエル・ド・アストレイです。どうぞお見知りおきを」
もう一度膝を折り、彼女の手をとる。
そこに軽く口づける真似をすれば、「まあ!」と、少女は頬を薔薇色にした。
「お兄様、とっても素敵なお方ですわ!」
そう言ってあわてふためいている様子が、また可愛らしい。
「クリステル、アストレイ隊長が素敵な方だというのは同感だけれど、君の婚約者のことを忘れてはいけないよ」
「ええ、もちろんです、お兄様。どうぞ心配なさらないで」
どうやらすでに決まった相手がいるらしい。
――まあ、王族なら当然か。
ノエルはふたたび立ち上がった。
「我が国にご滞在中は、我が王立騎士団近衛隊が、お二人の護衛を務めさせていただきます。どうかご安心の上、ごゆるりとお過ごしくださいませ」
「ありがとう。世話になります」
「こちらのお部屋には、皇太子殿下が。お隣にはクリステル殿下がご滞在されるとか」
「ええ」
「私たちは一度、下がらせていただきますが、おふたりのお部屋の扉の外には、常に近衛隊員を配置しております。何かございましたら、なんなりとお申し付けください」
「そうさせていただきます。君たちの協力に感謝を」
ノエルとセドリックは一礼し、部屋をあとにした。
――で、あの皇太子は、これからあいつと会うのか……。
セヴランとクリステルは、このあと、王宮の王の間で、国王に謁見する予定となっている。
それにはオリヴィエも、リュシールも同席するらしい。
事実上の見合い、といったところだろうか。
もちろんノエルも警備の指揮者として、立ち会うこととなっていた。
――あいつに会うのは、半月ぶりだな。
その時、ノエルは嬉しいような、不安なような、何とも言えない心地に陥っていた。




