第二十三話 彼の本心
「あんたは……! 頼むから普通に登場してくれ!」
リュシールに突進されたおかげで、手に持っていたグラスから、派手にワインがこぼれた。
くすくすと笑いながら、セドリックがグラスを引き受けてくれる。
「おい、聞いてんのか? って、俺にはさわられたくないんじゃなかったのか」
かつて彼女は言っていた。『わたくしにふれていいのは、あの方だけ』と。
なのにどうだ。今は彼女がノエルの腰を抱いているような状況じゃないか。
「どうしよう……」
蚊が鳴くように小さな声だった。
「んあ? 何が?」
「あの方と、結婚できなくなってしまう……」
ああ、そのことか、と、ノエルは思った。
「あの方と……あの方と、結婚できなくなってしまったら……!」
そこでリュシールは、わあっと号泣し始めた。
「あんなに素晴らしい御方ですもの……! きっとすぐに新しい相手を見つけてしまわれるわ! あの方を想っている者なんて、それこそ山のように……いいえ、もっとよ! 国中の娘たち……いいえ、世界中の娘たちがあの方の妻の座を狙っているんですもの! すぐにご結婚されてしまうわ!」
「いや、世界中ってことはねえだろ」
おまえの頭の中どうなってんだ? と、ノエルは内心で突っ込む。
「あの方……そもそもあのご年齢までご結婚されずにいたことが奇跡ですもの。きっとすぐにどこぞの貴族の娘と見合いをして、三か月後には正式に婚約をして、来年の二月半ばあたりにはご結婚をされてしまうわ……!」
「だいぶ具体的な妄想だな」
「そのようなことになったら、もうどうしていいのか……! 正気でいられる自信がないわ!」
「おい、とりあえず落ち付けって」
しかし、ノエルの声はまったく耳に入っていないのだろう。
リュシールはぶつぶつつぶやき続ける。
「あの方がほかの令嬢とご結婚されても、わたくし、あの方を忘れることなんてできやしないわ。今までどおり――いえ、今まで以上にあの方をお慕いして、あの方の姿をこの目に映したくて、あの方のあとを追って、きっと職場やあの方の邸宅にまで忍び込んで……ああっ、このままではきっと犯罪を起こしてしまう! それも日常的に!」
「いや、犯さないよう努力しろよ、それは」
――そもそも根っからのストーカー気質なんだよな、こいつ。
台詞に真実味がありすぎて、恐怖心すら覚えた。
「やはりダメよ、絶対にあの方とわたくしの結婚を成立させなければ……! そのためにはどうしたらいいのか……」
と、そこでリュシールは、何かを思いついたようにぽんと手を打った。
「そうだわ、邪魔しようとしているのはお兄様ですもの、考えてみれば簡単なことだわ!」
「おお、なんかうまいこといきそうなのか」
「シャルマン、あなたの力が必要よ!」
リュシールは突然、ノエルのシャツの胸元を両手でつかんでくる。
「ねえシャルマン、おまえの占いの力は本物だわ。ならばその力――呪術のようなもので、わたくしのお兄様をさくっと呪い殺してくれないかしら!」
「って、にこにこしながら言うな!」
サイコパスか! と吐き捨てながら、ノエルはリュシールの腕を引き、二階のいつもの席へと連れて行った。
「くくっ……! いやあ、面白いね!」
背後からはセドリックがついてこようとするが。
「おまえは来るな!」
どいつもこいつもとことん面倒だと、ノエルは額をおさえる。
「――で、あんたはとりあえず落ち着け。とにかく落ち着け。頼むから落ち着け。兄を呪い殺すとか、そんなアホみてえなこと考えるな」
席に座るなり、まずは言い聞かせた。
「ずいぶんな言いようね。わたくしはいたって真剣よ」
「だからこそ怖えってんだよ」
言いながら、ノエルはリュシールにハンカチを差し出す。
「まだ頬が濡れてるから拭いとけ」
「あら、いい品ね。……あら? これ、どこかで見たような……」
「――っ! やっぱり自分のを使え!」
しまった、と慌ててハンカチを取り戻した。
何の気なしにポケットに入れていたそれは、八年前にノエルを何度も励ましてくれた相手――つまりリュシールから贈られた品だったのだ。
「とにかく、あんたは暴走と妄想がすぎるんだよ」
気を取り直すかのようにワインをあおった。
「もう一度言うが、まずは落ち着け。それから問題の本質と原因を分析し、今後どのような手段をとれば目的が達成できるのかを考えろ」
「そんなことを言われても、本当にどうしたらよいのか……」
今日一日、あれこれ考えても良い案が浮かばなかったのだろう。
リュシールは気落ちした様子でうなだれる。
「そもそも、本当にその男と結婚できねえのか? さっき、『邪魔しようとしているのはお兄様』って言ってたが、はっきり婚約破棄を告げられたのか?」
ノエルが立ち聞きした限りだと、オリヴィエは、「婚約を白紙にする必要がある『かもしれない』」と、言っていたのだが。
「わからないわ。けれど……一刻も早く、お兄様があの方にその話をする前に、どうにかしたいの。だって婚約が破棄になるかもしれないと告げたら、あの方は二つ返事で了承してしまうわ。そうなったらもう、何もかもが終わってしまうもの」
「二つ返事って……べつにそんなこともねえだろ」
むしろ絶対に頷くものかと、今、ノエルは考えている。
しかしリュシールは、「いいえ」と首を横に振った。
「わたくしにはわかるの。あの方をずっと見てきたから」
「何が」
「――あの方は、わたくしのことを好いてくださっているわけではない」
「……は?」
思わぬ言葉に、ノエルは呆気にとられた。
「命じられて、しかたなく婚約を了承してくださっただけ。……本当は、わたくしと結婚などしたくないと思っていらっしゃるのよ」
「それは……」
ここにきての、まさかのその発言に、衝撃を覚えた。
よもや彼女が、そう感じ取っていたなんて。
「だが、最初の頃に言ってたじゃねえか。結婚式まで待ちきれないとか、あんたのことを早く自分のものにしたいとかって、その男に言われたって」
まあ、ノエルは全く言った覚えがなく、リュシールの虚言百パーセントなのだが。
「そんなもの、すべてわたくしの妄想よ。そうであってくれればいいのにとの、たんなる願望だわ」
「あんた……やばいやばいと思ってたが、実は少しはまともだったんだな」
「最初からわかっていたわ。あの方がわたくしとの結婚を喜んでくださっていないことは」
ノエルは「たしかに……」と腕を組んだ。
「あんたの言うことも一理あるかもしれねえ。婚約の命令は突然だったんだろ? ならその男が不本意ながらも頷いた可能性は高い。――が、その時とはだいぶ状況は変わった。今はその男も、あんたのことを好き――というか、あんたとの結婚を、ちゃんと喜んでるんじゃねえのか?」
「たしかに、先日、言ってくださったわ。わたくしのことを愛おしく思っている、と……。けれどあの言葉だって、わからないもの。あの方の本心なのか、あるいはわたくしを哀れんで言ってくださったものなのか」
「いや、そこを疑う必要はねえだろ」
「いいえ、もしかしたらあの言葉すらも妄想だったのかも……だってわたくし、あの方のことを想いすぎて、きっともうおかしくなっているのよ」
「いや、あんたがおかしいのは元からに俺は一票」
「あなた、さっきからなにかと失礼ね」
「って、それよりも……」
さてどうしたものかとノエルは腕組みする。
「わたくし、自分がこわい……! あの方が口にしたなんらかの言葉を、自分の都合のいいように解釈して聞いてしまうなんて……!」
「ちょっと待て。だからあんたのその思考がやべえ――って、ああもう! とりあえず黙っとけ!」
次から次へときりがないと、ノエルはうんざりした。
「いいか、俺の話をよく聞け」
膝の上で堅く握られた、リュシールの小さな拳。
ノエルはそれに自らの手を重ねた。
「頼むから今は、ふれるなとか言わねえでくれよ?」
冗談めかして言えば、リュシールの表情が少しやわらぐ。
「あんたがその男に言われた言葉――あんたのことを愛おしく思ってるとの告白は、妄想でもなんでもねえ」
「シャルマン……」
「その男の、心からの言葉だ」
彼女に言い聞かせるように、自分自身で噛みしめるように、ノエルは言った。
「そいつはあんたにちゃんと惚れてんだよ」
そう、だから。
「あんたとの婚約だって、どうにか破棄にならないようにと動くはずだ」
「そう、かしら……」
リュシールは自信なさげに唇を噛む。
「絶対にそうだ。俺を信じろ」
「あなたを?」
「そもそも俺の占いの力を――俺のことを信じたからこそ、俺にアドバイスを求めてきたんだろ?」
ついひと月ほど前。偶然出会った、この酒場で。
「あんたとそいつがうまくいくようどうにかしてほしくて、俺を頼ったんだろ?」
「それはそうだけれど……」
「なら最後まで俺を信じろ。その男は間違いなく、あんたのことを愛おしく思ってる。今この瞬間だって、あんたと結婚したいと願ってるはずだ」
だからこそ。
「明日にでもそいつのところに行け。顔を合わせて、目を見て、それでどうしたら二人が結婚できるのか、そいつに相談してみろ。今後、どのように動いていくのか、そいつと一緒に考えるんだ」
「あの方と……?」
その選択肢はなかったのだろう。
リュシールは蒼い瞳をぱちぱちと瞬いている。
「結婚するんだろ? そいつと夫婦になるんだろ? ならふたりで問題を解決しろ。大丈夫だ。きっとそいつがどうにかしようと全面的に動く。そしてきっと上手くいく」
「シャルマン……」
リュシールは今にも泣き出してしまいそうな顔になった。
けれどすぐに微笑む。
無邪気で、純粋で、とにかく美しく。
「ありがとう、シャルマン……あなたにそう言われたら、なんだか本当にそうなるような気がしてきたわ」
「信じろ」
「ええ、信じる。……あなたを信じるわ。だっていつだって、あなたの言うことは正しかったもの」
――ああ、なんて綺麗に微笑むんだ。
性格にはかなりの難有り。
横柄で、無鉄砲で、けれどどこまでも純粋で。
――絶対に手放してなどやるもんか。
目の前にいる彼女に見とれながら、ノエルはぼんやりと考えていた。
「シャルマン……おまえはいい男ね。ようやくわかったわ」
リュシールはひとりごとのように言った。
「遅えよ」
「最初はゴミみたいな男だと思っていたけれど、人を上辺だけで判断してはいけないわね」
「なんだ、俺に惚れたのか」
するとリュシールは、途端に呆れ顔になった。
「何を馬鹿げたことを言っているのよ。そんなことは絶対にありえないわ」
「だろうな」
「わたくしはただ、あなたに感謝しているだけ。ここで偶然にも出会って、何度も励まされて、助けられたから……」
そう、だから、とリュシールは続けた。
「あらためて言わせてちょうだい。シャルマン……あなたに感謝するわ。口は悪いけれど、本当は優しくて、頼もしくて、いつでもわたくしを気遣ってくれて……けれどやっぱりどうしようもない遊び好きで、女たらしで、ギャンブル狂で」
「おい、感謝してるってわりにはずいぶんな言い様だな」
「でもわたくしは、そんなクズなあなたのことが、人として好きよ」
ありがとう、と、再度微笑んだリュシールの、まっすぐな眼差しがきらきらとまぶしくて。
「……おう」
ノエルはそれとなく視線を外した。
* * *
「おはようございます、殿下。今、少々お時間いただけますでしょうか」
翌朝、ノエルはリュシールの兄――オリヴィエの執務室を再び訪ねた。
昨日は状況が悪く、婚約に関しての話をすることができなかったため、本日こそはと考えたのだ。
「やあ、ノエル。今日もおまえに会えるなんて幸運だよ。美しいものをみると気分がよくなるからね」
「恐縮です」
「え? だったら僕自身の姿を鏡に映して見ろって? もちろんそれが一番気分がよくなる方法だってことはわかってるさ! あははっ!」
――ちっ……あいかわらずクソ面倒くせえ奴だな。
「殿下、お答え下さい。今、私のために少々お時間をいただくことは可能ですか?」
ノエルはオリヴィエの戯れ言を華麗に無視した。
「ノエル……おまえは冗談を楽しむ余裕もないのか? あいかわらず真面目な男だねぇ」
彼は呆れたように首をすくめる。
「申し訳ございません」
「シャルマン・クレールを名乗っている時のおまえは、まるで別人のように不真面目だっていうのに――」
「殿下!」
ノエルはオリヴィエの言を遮った。




