第二十二話 政略的婚姻
「で? ようやく自分の気持ちを自覚して、結婚に前向きになれたと思ったら、食あたりで五日間、生死の境をさまよったって?」
リュシールとの晩餐会から六日後。
久々に近衛隊に出勤したノエルの前に、あきれ顔のセドリックが立った。
「あの料理をフルコース、全部食べてみせるだなんて、正気の沙汰とは思えないな。恋は人を狂わせるとは言うけれど、まさか君がそんな行動に出るとはね」
「黙れ、セドリック。この話は終わりだ」
ノエルは仏頂面で応える。
もちろん、無茶をしたとの自覚はある。
けれどリュシールの料理に、ここまでの殺傷力があるとは、まさか思わなかったのだ。
――食べ終わった直後から、上から下からの大騒ぎで長らくトイレとお友達だったもんな……なんなんだ、あいつの料理は。
あの夜、這々の体でアストレイ家に帰ったものの、その後もひどい吐き気と腹痛に襲われ続け、結局、仕事を五日も休むこととなってしまったのだ。
「しかし、天下の近衛隊長殿の健康をそこまで害するとは、すごい威力を持った料理だね。いっそのこと騎士団の新兵器として投入したらどうだろうか?」
なるほど、それもありだな、と納得しかけた自分に、ノエルは「アホか」と胸中で突っ込む。
「セドリック、おまえに迷惑をかけたことは謝る。だがいつまでも馬鹿げたことを言ってないで、今はとにかく溜まりに溜まった仕事の手伝いをしてくれ」
と、そこで執務机の引き出しを開けて、はっとした。
「セドリック、おまえ……」
「そこにあった書類なら、僕がまとめた上で騎士団長に提出しておいたよ。一昨日が期限だったようだからね」
「……すまない。正直、助かる」
「あっちの上に積んであった書類も適宜、片付けた」
「そうか……ありがたい」
「礼の言葉だけで済ませるつもりかい? もちろん、景気よくおごってくれるんだろう?」
「一日だけ、上限なしでどうだ?」
「手を打とう」
――まったく……頼もしいんだか、したたかなのか。
溜息混じりにあげた右手を、セドリックの右手がパンッと打つ。
約束成立。
さていよいよ本腰を入れて仕事に取りかかるかと、ノエルは椅子から立ち上がった。
「そういえばさ、結局、ノエルの婚約相手って、リュシール王女殿下、ということでいいんだよね?」
セドリックが唐突に核心を突いてきた。
「それで、あの店にシャルマンを訪ねてきている彼女こそが、王女殿下その人――って認識は正解?」
「なんだ、急に」
ノエルは眉根を寄せる。
ここ最近、ノエルが置かれた状況を、完全に面白がっていたセドリックだ。
それでも今まで、あえて詮索してくることなどなかったのに。
「いや、それがさ、君が休んでいる間に、重要な仕事の話が近衛隊に入ってきてさ」
「依頼主は誰だ」
それと先ほどの話と、どのような関係がある?
「依頼主は、オリヴィエ・ド・ラグランジェ殿下」
「――っ!」
つまり、リュシールの兄である皇太子だ。
――なるほどな。
ノエルはひとつ、深呼吸をした。
「……で、その依頼内容は?」
「隣国ノワールの皇太子殿下の護衛だ。半月後に我が国を訪れる予定になっているらしい」
「ノワールの? なぜ今頃、皇太子ともあろう御方が我が国にやって来る?」
「政治的な理由はわからない。けれど昨日、面白い話を小耳に挟んでね」
「オリヴィエ殿下の侍女からか。最近、おまえが口説き落としたとかいう?」
うなずきながら、セドリックは意味深な笑みを浮かべた。
「ノワールの皇太子殿下は来年、十八歳――つまり成人を迎えられる。それを機に、昔からの友好国である我が国と、さらに親交を深めたいとの方向で話が進んでいるらしい。――さて、ここでノエルに問題だ。国と国とが同盟を結んだり、より懇意になるために、昔から選択されてきた術はなんだい?」
「それはもちろん――」
言いかけて、ノエルは深い溜息を吐いた。
「なるほどな……そういうことか」
やがて身体の奥底からふつふつと怒りが沸き上がってくる。
――ふざけるな。まさかこの俺を差し置いて、彼女を嫁にやるつもりか?
「あのクソ皇太子め……」
苛立ちに任せて両の拳をきつく握ると、爪の先が手のひらに食い込んだ。
「セドリック、答えは『政略的婚姻』だ」
ノエルは椅子の背もたれにかけていた隊服のジャケットに袖を通す。
政略的婚姻。つまり。
「いまだ独身であらせられる王の次女、リュシール殿下と、ノワールの皇太子殿下との婚姻を成立させようって腹か」
「ご名答」
にこりと笑うセドリックに、ノエルは「ちっ」と盛大な舌打ちを返した。
「ただ、侍女の話によると、あくまでそうではないか? との、推測の話らしい。君とリュシール殿下の婚約内定は公にはなっていないから、まさか殿下に決まったお相手がいるとは誰も思っていないのだろう」
推測だろうがなんだろうが、可能性があるなら、早期に叩き潰しておく必要がある。
「セドリック、いくぞ。ついてこい」
ノエルは早足で歩き出した。
そのあとを、襟を正したセドリックが、命令どうりに付いてくる。
「どこに行くんだい?」
「聞かなきゃわからねえのか?」
「皇太子殿下なら、今の時間、執務室にいるはずだ」
「まずはそのクソつまらねえ案が真実なのか否か、吐かせてやる」
苛立ちを隠さずに、ノエルは王宮の東の塔へと向かった。
* * *
――あれは……騎士団長か。
東の塔の三階の廊下に出ると、オリヴィエの執務室の前に、四十手前の端正な顔立ちの男――王立騎士団の長、リンツ・ランヴィエールが立っていることに気が付いた。
ノエルの直属の上司だ。
そこでいったい何をしているのか、腕組みをした状態で、筋肉質な身体を持てあますように揺らしている。
――ちっ……なんでいるんだよ。
ノエルはつい、「面倒くせえ」と呟いていた。
「ノエル、声に出てる」
セドリックに言われて、はっとする。
こほんっと咳払いをして仕切り直し、団長のもとへと向かった。
「ランヴィエール団長、おはようございます。こちらで何を? オリヴィエ殿下になにかございましたか?」
「おお、ノエルとセドリックか。……って、久々だなぁ、ノエル。五日もの間、どこで遊んでいやがった?」
ランヴィエールは大口を開けて豪快に笑った。
「夏休みをとるには早すぎるだろ」
「団長、私のこの姿をご覧になっても、同じ台詞を?」
「冗談だ、冗談。しかし、ちょっと痩せたな。病というのは本当だったのか」
「残念ながら」
「もういいのか?」
「ええ、おかげさまで」
それよりも、と、ノエルはもう一度問うた。
「団長は、こちらで何を? オリヴィエ殿下は中にいらっしゃらないのですか?」
「いや、それがな……殿下に用があって来たんだが、この騒ぎでな」
ランヴィエールは、オリヴィエの執務室の扉に視線を流す。
この騒ぎ? と、首をひねったノエルだったが。
「ですからありえませんわ! 今さら婚約を白紙に戻すだなんて……絶対に嫌です!」
室内から響いてきた甲高い怒声に、思わず息を飲んだ。
――あいつ……来てるのか。
それでもって、婚約を白紙だと?
もうそこまで話が進んでしまっているのだろうか。
「そんなに騒ぐな、リュシール。私は婚約を白紙にする必要がある『かもしれない』と言ったんだ。ちゃんとこのお兄様の話を――」
「聞きたくありません!」
リュシールはかなり興奮しているのだろう。
部屋の外にまで届く大声のおかげで、ノエルたちにも話が筒抜けだ。
「いいですか、お兄様。わたくしは絶対に、絶対に、絶対に! 承伏しませんからね!」
「おまえにそう言われてもねぇ。もしもそう決定したなら、それは誰にもどうにもできないことだからね」
「絶対に嫌です! ええ、もう絶対の絶対の絶対に嫌!」
「ならば僕も言おうか。そうなった時におまえの婚約をこのまま認めることは、絶対の絶対の絶対に無理!」
――って、アホ兄姉が。子供の喧嘩か。
ノエルは頭が痛くなった。
「お兄様、もしどうしてもこの婚約を白紙にするとおっしゃられるのなら――」
「なら? どうするっていうんだい?」
「――死んでやりますわ」
怨みがましい声が辺りに響いた。
「わたくしからあの方を取り上げようとするのなら、死んでやる……! どうせなら王宮の一番高い塔の上から首を吊って! 多くの者の目につくような派手なやり方で! そして死んだあとも、未来永劫ずうっとお兄様のことを呪ってさしあげますわ!」
――いやいやいや、怖えって!
皆、同様の感想を抱いたのだろう。
ノエルとセドリックとランヴィエールは、無言で顔を見合わせる。
すると次の瞬間、オリヴィエの執務室の扉が開き、中からリュシールが走り出てきた。
「あっ……」
まさかそこにノエルがいるとは予想だにしなかったのだろう。
彼女は目を丸くして立ち止まる。
「ノエル様、今のお話……」
さて、ランヴィエールもいるこの状況で、どうすべきか。
わずかに躊躇したノエルだったが、そのすきにリュシールは、「失礼いたします……!」と、逃げるように走り出してしまった。
――って、絶対に泣くだろうが!
いくら婚約内定が内密だからとて、このまま放っておけるわけがない。
「セドリック、あとは頼む」
ノエルはリュシールのあとを追おうと踵を返した。
しかし開いたままの扉から、オリヴィエが顔を出す。
「ランヴィエールに、ノエルとセドリックも? ちょうどいい、君たちに用があったんだよね」
さあ中に、と、入室を促されてしまえば、従わないわけにはいかなかった。
「例の、ノワールの王太子殿下の警護の件で話があってさ」
ノエルは密かに溜息を吐く。
そもそもノエルは、隣国の王太子とリュシールの政略的婚姻の真偽について、オリヴィエを問い詰めるつもりでここに来た。
けれどランヴィエールもいるこの状況で、私的な話をするわけにはいかない。
さらにはこの場を抜け出し、リュシールのあとを追うことも、立場的に不可能だ。
――ちくしょう……タイミング悪すぎんだろ。
ノエルは後ろ髪を引かれつつ、オリヴィエの執務室へと入った。
* * *
オリヴィエの用事は、結局、会議と呼んでもいいレベルの話し合いに発展した。
それにかかった時間は、ゆうに四時間。
その後、昼食を摂る間もなく、午後イチからの近衛隊の訓練が始まり、そのあとには溜まった事務仕事や、新たに生まれた仕事に忙殺されることとなって。
――あいつの様子を見に行きたいのに。
やきもきしつつも、結局、リュシールを訪ねることができぬまま、ノエルは夜遅くに退勤することとなった。
その後、馬車を急がせアストレイ家に帰り、すぐさまシャルマンに変装し、例の酒場にやってきたのだが。
――あいつは……来てないか。
ここでならリュシールに会えるのではないかと期待したのだが、酒場に彼女の姿を見つけることはできなかった。
「店主、上を使うぞ」
カウンターでグラスワインを受け取り、いつもの席に向かう。
「やあ、ノエル――じゃなくてシャルマン。早かったね」
一足先にやってきていたセドリックが、ノエルの隣に並んだ。
どうやら一階で女を口説いていたらしい。
二人組の女たちが、何かを期待するような眼差しを、こちらに向けてくる。
けれどセドリックは、「またね」と手を振って終わりにした。
「いいのか?」
「いいんだ。かわいいんだけど、簡単すぎてね」
つまり、あまりに容易く誘いに乗ってきたからつまらない、ということなのだろう。
「なんか物足りないんだよね。もう少し手応えを感じたいというか」
「まあ、わかる気もする」
「その点、君はいいよね」
「俺?」
階段に向かいながら、どういうことだ? と、首を傾げる。
「だって面白すぎる状況じゃないか。相手は絶世の美少女。かつ至高の地位。かつ性格には難有りで、さらに面倒な兄姉がいて、でもそれでもやっぱり可愛らしくて――」
「って、おまえ、完全に面白がって――うおっ」
意図せず、ノエルの口からおかしな声が漏れた。
突然、背に激しい衝撃を覚えたからだ。
「な、なんだ!?」
猪でも出たか!? と、慌てて振り返ってみれば、視界に映ったのは金色の頭頂部。
驚くことに、ノエルの背にしがみついていたのは、リュシールだった。




