第二十話 正体を知る彼は
――しかし、こんな早朝だってのに、あいかわず嫌味なくらいまぶしい男だな。
薄闇の中でも輝く金髪と碧眼を目にして、ノエルは一瞬、天を仰いだ。
彼の名は、オリヴィエ・ド・ラグランジェ。
ここラグランジェ王国の皇太子であり、リュシールの兄である、二十一歳の青年だ。
人形のように整った顔立ちと、すらりとした体躯を持つ彼は、にこにこしながらノエルの前に立つ。
「おはようございます、皇太子殿下」
ノエルはその場で膝を付いた。
ここまできたらもうなるようにしかならないと、覚悟を決める。
さて、彼はいったい自分をどうするつもりだろうか?
頭を下げ続けていると、「おまえはリュシールの元へ戻れ」と、オリヴィエが侍女をこの場から下げた。
「このことはとくにリュシールに報告する必要は無い」
これで今から起こることを、彼女に知られなくてすむ。
ノエルはほっと安堵した。
「で、ノエル、いつまでそうしているつもり? さっさと頭を上げたらどう――って、ああ、僕の存在がまぶしすぎて直視できないって? はははっ! まあそうだろうね!」
オリヴィエは楽しげな笑声を辺りに響かせた。
――くそめんどくせえ。
この自己陶酔者め! さっさとどこかに行け!
罵声が口から飛び出そうになる。
「美しい外見に完璧な中身……おまえが僕をまぶしく思う気持ちも理解できるよ。けれど――」
「いえ、とくにそういうわけではありませんが」
ノエルは無表情で顔を上げた。
「ただ単にご命令をいただくまで動かなかっただけです」
「あ……そう?」
オリヴィエは一瞬、気が抜けたような顔をした。
「まあ、そういうことにしておいてあげてもいいけど……とにかく! どこの野良猫かと思ったら、まさかおまえだとはねぇ? こんな時間にこのような場所で会うなんて、ほんと奇遇だねぇ」
にやにや笑う彼の目は、けれどちっとも笑っていないように思えた。
「妹の――リュシールの部屋からの帰り? おまえたち二人の婚約はまだ正式に締結されてないっていうのに、いささか性急すぎない?」
「ご安心を。一晩、料理をして過ごしただけですので」
ありのままを伝えると、彼は「ふうん?」と、意味ありげに首をかしげた。
「それよりも殿下、いくら城内といえど護衛も付けずに出歩くなど、いったいどうなされたのですか」
するとオリヴィエの指が、ノエルの伊達眼鏡を撫でるように動いた。
「おまえこそこんなおかしな格好までして、いったいどうしたのさ、ノエル。……ああそれとも今は、シャルマン、と呼んだほうがいいのかな?」
「――……っ!」
――やはりな。すべてお見通し、ってわけか。
ノエルは伊達眼鏡を外し、無造作な黒髪を整えるように掻き上げた。
オリヴィエの前で変装をしている自分が、途端に馬鹿らしくなったのだ。
「やはり、私のあとを付けていらしたのですね。昨夜、あの酒場から……」
昨夜、リュシールの侍女に誘導され、乗り込んだ馬車。
そのあとをずっと付いてくる馬があることに、ノエルは気づいていた。
それがオリヴィエが私的に所有する馬に似ているような気もしていたが、まさか本当に彼のそれだったとは。
「なぜそのような真似を? 妹君のために、私の素行をお調べになられたのですか?」
「違うね。おまえのことはもっと前から調べていたさ。それこそおまえが王宮に出入りするようになった頃からね」
八年も前から?
ノエルは眉根を寄せる。
「当然だろ? なにせおまえは私の臣となる――国の重臣となる人材だ。素性をよく知っておく必要がある」
オリヴィエのひとさし指が、ノエルの顎にあてられる。
そのまま動かされ、顎を持ち上げられるような形になった。
「おまえがシャルマン・クレールと名乗っていること? もうずっと前から知っていたさ。そうして腐るほど女を抱いていたこともね」
「ではなぜ反対されなかったのです?」
リュシールとの婚約を、だ。
「メリットとデメリットを差し引いた結果、国益になると判断したから」
「なるほど」
「侯爵家の長男な上に、仕事においてはとにかく有能なおまえだ。その本質が特上のクズでも、私のために働いてもらうことに差し障りはないだろう?」
「ならば、この件はこのまま捨て置いてくださいますね?」
つまり、ノエルの私生活について、とくにリュシールに知らせてくれるなとの意味だった。
するとオリヴィエは、「ははっ!」と笑って、ノエルの顎から手を引いた。
「ああ、もちろんさ。この件はリュシールにも、父にも黙っておくつもりだよ」
「感謝いたします」
「けれどノエル、私の可愛い妹を悲しませないでくれよ? 酒場で会っている男がおまえだからこそ、たいした護衛はつけずにいたが……せいぜい、ばれないように、ねえ?」
にやりと笑って、彼はノエルに背を向けた。
「殿下! このあとはどちらへ?」
「執務室に戻るつもりだけど?」
戻る、ということは、ここに来るまでそこで仕事をしていたのだろう。
「承知いたしました。ですがひとつだけお約束してください」
「なにを?」
「王宮内でも、どの時間でも、近衛隊隊員とともに行動してください。それが規則です」
「ははっ、おまえのそういう馬鹿真面目なところ、好きだよ。この状況でも職務を全うしようとするんだからねぇ」
「そういうお話ではありません」
「わかったよ。次からは必ずそうするさ」
ひらひらと手を振りながら、オリヴィエは去っていく。
その背を見つめながら、ノエルは予感していた。
――近々、何かあるな。
なぜならノエルの素行を以前から把握していたはずのオリヴィエが、あえてこのタイミングでノエルに接触してきたからだ。
――さて、いったい何のつもりか……。
ノエルは憂鬱な気分を抱えたまま、馬車へ乗り込んだ。
* * *
「ノエル様……本日の食事ですけれど、お約束通り、わたくしが準備いたしましたの」
その夜。ノエルの執務室にやってきたリュシールは、「わたくしの手作りなのですが……」と、もじもじしながら言った。
「手作り? あなたの?」
「ええ」
「殿下は普段から料理をなされるのですか?」
驚くふりをして、あえて意地悪な質問をぶつけてみる。
「そうですね。嗜む程度ですが、趣味のひとつとして……」
ノエルは吹き出しそうになるのをぐっとこらえた。
「それは素晴らしい。王女というお立場でありながら、家庭的な一面もおありなのですね」
褒められて気をよくしたのだろう。
頬を朱に染めたリュシールは、いたく嬉しげな表情をしている。
「ではさっそくいただきましょう。まずは準備を」
食卓代わりにするべく会議用テーブルの上を片付けると、リュシールの侍女たちが部屋の中に入ってきた。
クロスや皿やカトラリーが運び込まれ、あっという間に食事のための下準備が出来上がる。
「では殿下、こちらへ」
リュシールの手をとって、椅子まで誘導する。
自分も対面の椅子に腰をかけたところで、晩餐会の開始だ。
まずは前菜。
季節の野菜と鶏胸肉のテリーヌが運ばれてきた。
――って、嘘だろ!? 奇跡的に上手く作れてるじゃねえか!
驚くあまりに声が漏れそうになった。
テリーヌ自体の形や彩りの美しさだけでなく、隣に置かれた生野菜やソースの配置のバランスもとても良い。
「ではいただきます。殿下、あなたと過ごせる夜に、感謝を」
ワインで乾杯し、一口大に切ったテリーヌを口に運ぶ。
「――っ! これは……!」
ノエルははっと息を飲んだ。
あまりに驚きすぎて、数秒間、息をすることを忘れるほどだった。




