第二話 夜、予期せぬ出会い
「どうしたんだい、ノエル。今日はもうだいぶ飲んでいるようだけれど」
その夜、いきつけの酒場で飲んでいると、少し遅れて悪友が現れた。
「君がこんな早い時間から飲むなんて珍しい。何かあったのかい?」
下級貴族たちが集まる酒場の二階。
吹き抜けから階下を見渡せる特等席に座るノエルの横に、彼も腰を下ろす。
悪友の名はセドリック。
伯爵家の三男であり、近衛隊でノエルの腹心の部下――副隊長として働く二十三歳の男だ。
「何かあったなんてもんじゃない。まさに俺の命運を左右するようなことが起きやがった」
ノエルはグラスに注がれたワインをひといきに飲み干した。
「命運を左右? 天下の近衛隊隊長様の?」
「言うな、セドリック。ここでは俺は、男爵家の次男坊――シャルマン・クレールだ」
「偽名まで用意して、周到なことだ。ここには君の顔を知っているような身分の者なんて、出入りしていないだろうに」
「それでも、だ。もし素性がばれたら大ごとになっちまうからな」
ノエルは近衛隊隊長という身分ばかりか、侯爵家の長男であることも隠してこの店で遊んでいる。
念のための変装までしているが、いまだかつてノエルの正体に気づく者はいなかった。
「しかし、マジでどうするかな……あのクソ親父。あんなクソみたいな縁談をまとめようだなんて、頭にクソが詰まってるとしか思えねえ。なんだったらあのクソが税金逃れに隠した財産を公にして、さらりと失脚させてやるか? そうなればこのクソみたいな話も――」
と、その時。
「あら、シャルマン様」
ノエルの偽名を口にしながら、女が階段を上がってきた。
この店でたまに会う馴染みの女だ。
――たしか男爵家の令嬢だと言っていたような……なんて名前だったか。
二、三度、ベッドに連れ込んだような気がするが、思い出せない。
「お久しぶりね、シャルマン様。あなたのこちら側に誰も座っていないなんて、今日の私は運が良いわ。もちろん今夜は私を選んでくださるのでしょう?」
女はノエルの隣――セドリックとは反対側の椅子に腰を下ろした。
そこは、ノエルが店を出る際に連れ帰る――つまり夜をともにする女が座る、と噂されている席だ。
「今夜? ……そうだな。おまえが望むなら、存分に可愛がってやってもいいが?」
いつまでも鬱々としていてもしかたがない。
気持ちを切り替えたノエルは、隣に座る女との距離を詰めた。
「俺にどう愛されたいのか、今のうちからよく考えておくんだな」
「シャルマン様ってば、本当にお綺麗なお顔……」
女は熱に浮かされたように息を吐く。
――たしかに、容姿には自信があるさ。
涼しげな目元に輝く蠱惑的な紫色の瞳。
陶器のように滑らかな白肌に、まるで人形かと思うほど整った顔立ち。
艶やかな黒髪に均整のとれた体躯など、ノエルと会った者たちは皆、多様な言葉で容姿を褒め称えてくる。
――あの王女だってそうだ。
ノエルの外見を気に入ったからこそ、夫にと望んだのだろう。
『容姿だけは素晴らしく良いおまえだ。いずれこのような僥倖が舞込むかもしれぬと期待はしていた』
昼間、父が口にした言葉が耳の奥によみがえってくる。
「……あのクソ親父、本音を言いやがって」
気づけば空のワイングラスを力の限りに握りしめていた。
「シャルマン様、どうかしたの?」
「いや、気にしないでくれ」
とりあえず落ち着け、自分。
今は酒に酔って、面倒なことなど忘れてしまえばいい。
自分にそう言い聞かせながら、けれどノエルは過去のことを――九年前のことを脳裏に思い起こし始めていた。
* * *
「つらい思いをさせたな、ノエル。最愛の我が息子よ。これからはこの父の元で、侯爵家の長男として生きるがいい」
今から九年ほど前。
質素な借家に住むノエルの前に父が現れたのは、ノエルの母が急逝した翌日のことだった。
もともと母は、アストレイ家で侍女をしていたらしい。
その際に父に見初められ、ノエルを産んだが、身分違いの結婚を義母に咎められ、ノエルを連れて秘密裏に家を出たのだとか。
それ以降、母は侍女仕事をしながら、女手一つでノエルを育ててくれた。
そのためノエルも、どうにか母の力になろうと、幼い頃から料理や掃除など、家事を手伝った。
「ノエル、お父さまを恨んではだめよ。何の相談もせず、密かに家を出たのは私なの。あなたのお父さまはきっと、今でも私たちを捜し続けてくれているわ」
ことあるごとにそう言って、少し悲しげに微笑んだ母。
そして、いずれノエルが侯爵家に戻るときのためにと、少ない給料をやりくりし、ノエルをいくつもの習い事に通わせた。
おかげでノエルは十二歳の頃には、料理や洗濯、掃除から社交儀礼や学問、武道や楽器まで、多くのことをこなせるようになっていた。
「ごめんなさいね、ノエル。本来であれば、あなたは侯爵家で何不自由のない生活を送れていたはずなのに……」
けれどノエルは、その頃、幸せだった。
優しくて綺麗で自慢の母からの愛を一身に受ける毎日は、とても満たされたものだったのだ。
しかしそんな日々はいつまでもは続かなかった。
ノエルが十四歳になった直後の、ある春の日。母は病に倒れ、急逝してしまったのだ。
ノエルの前に突然、父が現れたのは、その翌日のことだった。
どうやら父は、母の主治医から偶然にも情報を得、家を訪ねてきたらしい。
「間に合わなかったか……!」
生前の母の推測通り、父は長らくノエルたちを捜し続けてくれていたようだった。
しかしついに母と再会することは叶わず、ノエル同様、深い悲しみに打ちひしがれることとなったのだ。
そこからは父が指揮を執り、驚くほど立派な葬儀を挙げてくれた。
そして父は、ノエルを正式に自分の長男だと認め、アストレイ家に呼び寄せた。
――それから近衛隊に入隊して、出世して、王から伯爵位をいただいて。
仕事に真摯に取り組んだノエルは、成果を上げ、評価をされ、やがて近衛隊の長に任命された。
侯爵家の長男としては、順風満帆。
その一方で、私的な生活は荒れた。
母を亡くしたやるせなさを埋めるように酒を飲み、ギャンブルにふけり、女を抱いた。
それらは思いのほか楽しかった。
そのためノエルは、父にこう宣言したのだ。
「侯爵家の名を汚すことはしない。仕事に邁進することも誓う。けれど俺は侯爵家の跡取りとなる気は無い。今のところ結婚をする気もないから、あんたが再婚するなり養子を迎えるなりして、新たな跡継ぎをたててくれ」
その言葉が効いたのか否か、父はノエルを引き取った六年後に再婚をし、翌年に男児を設けた。
年の離れた弟は二歳になり、アストレイ家の広い屋敷内を元気に動き回る日々だ。
――そう、だからこの先も自分の気の向くまま、気楽にいけると、そう考えてたんだ。
本日の昼、第二王女との婚約を命じられるまでは。
* * *
「……ちくしょう、どうしろっていうんだ」
居ても立ってもいられない心地になり、ノエルは立ち上がった。
「あら、シャルマン様、お帰りになるの?」
だったら私も、と、隣の女も腰を上げる。
「おい、セドリック。カードに行くぞ。付き合え」
「え? 僕も?」
「シャルマン様、私は? もちろん連れて行ってくださるのでしょう?」
「おまえを抱く気分じゃなくなった。悪いがまたあとでな」
「そんな……!」
「行くぞ、セドリック」
すがりついてこようとする女を無視して、階段へ向かう。
「その気にさせるだけして放置とは、まったく、ひどい男だね」
呆れたように言いながら、セドリックが隣に並んだ。
「もう少し女性に優しくしたらどうだい? それとも本気の恋人にはまた違う顔を見せるのかな?」
「本気? そんな相手は今だかつてできたことがねえな」
と、そこでふと脳裏に、懐かしい記憶がよみがえった。
白い便箋に美しい文字で書かれた、『お体にお気を付けてくださいませ』の一文。
それはノエルが近衛隊に入隊した頃、ひと目を忍んで夜な夜な訓練していた際に、誰ともわからぬ相手に送られたメッセージだった。
――あれの差出人は誰だったのか……まあ、今となってはどうでもいいことだが。
「つまらねえ話は終わりだ、セドリック。今日はとことんカードに付き合えよ」
「前回の負け分、無しにしてくれるなら」
「いいだろう。――が、前々回のはきちんと払ってもらうからな?」
「なんだ、覚えてたのか」
あたりまえだ、と苦笑しながら、ノエルは階段を降り始める。
しかし、すぐさま足を止めた。
「……見慣れない女がいるな」
一階のテーブルの前に、こちらに背を向けるような形で座っている女が、どうにも気になったからだ。
ずいぶん身なりのよい女だ。
離れた場所からでも質の良い生地だとわかる、濃紺のドレス。
下ろした金髪を隠すように被ったベールには、銀糸の豪奢な刺繍が施されている。
彼女の横に控えめに立つのは侍女だろう。
なぜか焦ったような、困ったような表情をしていた。
――どこか高名な家の娘に思えるが、こんな酒場に何の用だ?
「ああ、きっと占いに来ているんだろう」
「占い?」
聞き返せば、セドリックが溜息混じりに言った。
「対面に座っている男がいるだろう? 最近、話題の占い師らしい。この店の一角を借りて、商売をしているんだとか」
なるほど、女の正面には、黒い外套を身に着けた、うさんくさそうな中年男が座っている。
「で、あの男、本物なのか?」
「まさか。適当なことを言って、まじないに使う品物を売りつけるまがいものだ」
「詳しいな」
「先週、ここで引っ掛けた娘がまさに被害者でね。ベッドであれこれ語っていたよ」
ということは今、あの席に座っている彼女は、まさに被害に遭っている最中ということか。
「……ま、俺には関係ねえけどな」
さて、さっさとカードに行くかと、ノエルは店をあとにしようとする。
けれど、女の側に控える侍女らしき者の悲痛な声に、反射的に足を止めた。
「リュシール様、そろそろお帰りのお時間ですわ。こうして抜け出していることが明るみになれば、いったいどのようなことになってしまうのか……おそろしくて考えたくもありません!」
「……は?」
――ちょっと待て、今、なんて言った?
冗談じゃない。
どうか聞き違いであってくれ。
そう願いながら、ノエルはほとんど無意識のうちに、占い師が座るテーブルに向かっていた。
――リュシール、と、そう言わなかったか?
そこに座る女の顔を見て、嘘だろう、と、ノエルは驚愕する。
そしてつい。
「何をやってるんだ、あなたは……!」
後先考えずに、声をかけてしまっていたのだ。
そこにいたのは、ここラグランジェ王国の第二王女――リュシール・ド・ラグランジェ。
はからずも自分の婚約者となってしまった、彼女その人だった。