第十九話 王宮での夜
「おい」
出入り口のあたりから、リュシールに声をかけてみた。
けれど、返事はない。
「おい。なんなんだ、あのありさまは」
もう一度。今度は少し大きな声で。
しかし、返ってくるのは沈黙だけだ。
「あの、シャルマン様……」
侍女が耳打ちしてきた。
「実は、もうずっとあのような調子で……お顔をちっとも上げてくださらないのです。それで、どうしたものかと考えあぐねていたら、シャルマン様を呼ぶようにと、殿下がおっしゃられましたので……」
慌てて酒場までやってきた、ということらしい。
――まったく、手がかかる。
ノエルは溜息を吐きながらベッドへ向かい、そこに腰をかけた。
「……上手くできなかったのか」
びくり、と、華奢な肩が揺れた。
「あの黒こげ料理……ある意味才能だな。あんだけのもの、なかなか作れねえぞ」
場を和ませようと、ノエルは軽口を叩いてみせる。
「まあ、しかたねえさ。あんたに料理は向いてねえんだ、ここまで頑張っただけでもたいしたもん――」
「嫌よ!」
急にリュシールが顔を上げたので、ノエルは驚いて「うおっ」と声を漏らした。
「な、なんだってんだ、急に」
「それはこっちのせりふよ! ここまで頑張っただけでも――とか、急にこれで終わりのような言い方しないでちょうだい!」
「あんた……」
こちらに向けられた蒼い瞳が、涙で濡れている。
長らく泣いていたのだろう。彼女の鼻の頭や目の周りが赤くなっていた。
「料理が向いていないことくらい、もちろんわかっているわ! なんなら一度目の調理後に、ちゃんと自覚していたわよ。でも、それでも……! それでも作りたかったんだもの、しかたないでしょう!?」
リュシールは、溜まっていた鬱憤を吐き出すかのように叫び続ける。
「わたくしだってねえ、頑張ったのよ! あなたに教えてもらったとおりに作ろうと、努力したのよ! でもできなくて……!」
「ちょっと待て。とりあえず一度、落ち着け」
な? と、ノエルはリュシールをなだめた。
これ以上、怒りを爆発させられて、面倒なことになっても困る。
けれど彼女はベッドに突っ伏した状態で、握った拳を寝具に叩きつけ始める。
「わかっているわよ! どうしようもないほど不器用だって……もちろんわかっているわ! なんならわたくしが一番わたくしにがっかりしているわよ! それに、あなたにだって……!」
「って、俺に八つ当たりはかんべんな」
「違うわよ! だた、あなたに申し訳ないと思って……」
「は? なにを?」
「ごめんなさい……」
リュシールは消え入りそうな声でつぶやいた。
「せっかくあなたがあんなにも教えてくれたのに……わたくしのわがままで、長い時間教えてもらったのに、結局、上手にできなくて……本当に、本当に、ごめんなさい……!」
蒼い瞳から、ふたたびはらりと涙がこぼれ落ちた。
――ああ、抱きしめてやりてえな。
ノエルは思った。
彼女の細い身体を抱き寄せて、自分の肩口に顔をうずめさせて。
彼女の額や涙で濡れる頬に、「大丈夫だ」と、口づけの雨を降らせてやりたい。
けれどその行為は、シャルマンには許されない。
――ちくしょう。ここにいるのがノエルだったら……。
そう考えた直後、何をわけのわからないことを、と、自分の思考に呆れた。
「……もう泣くな」
ノエルはリュシールの頭をぽんとなでた。
それが今の自分に許される最大の行為だと思えた。
「あんたはめちゃくちゃ頑張ってる。正直、ここまで根性があるとは思ってなかった」
「でも……! 結果、できなかったもの!」
「ならもっと頑張ればいいだろ?」
「え?」
リュシールは驚きに目を瞬く。
「まだ、付き合ってくれるの……?」
「ほら、やるぞ。時間がねえからな、泣いてる場合じゃねえぞ」
「やるって、ここで?」
「なんのために俺を呼んだんだ?」
「それは……上手くできなくて、混乱してしまって……あなたを呼ぶことしか考えられなかったの。あなたならどうにかしてくれると思えて……」
「って、その発言は……」
可愛すぎて反則だぞ、と、ノエルは唇を噛みしめる。
「とにかく、食事会は明日なんだろ? ならまだ時間はある。あんたが実際に調理するこの場所で、今度こそ上手くできるようちゃんと教えてやるから、今すぐ泣き止め」
途端に彼女のスイッチが入った。
すっくと立ち上がったリュシールは、手にしたハンカチで涙を拭う。
「ありがとう……やっぱりあなたに頼んでよかったわ」
少し照れくさそうに微笑むその姿が、また可憐で。
「くっ……またきやがった……!」
心臓がどきっと大きく跳ねて、思わず胸を押さえた。
「なに? どうかしたの?」
「いや、なんでもねえ。ちょっと苦しいだけだ」
「まさか……なにかの病気? 医者にはちゃんと診せてるの?」
「いや、そういう類のやつじゃなくて」
「あなた、四十六歳なのでしょう? 若くないんだもの、何かあったらすぐに医者を頼らなくちゃだめよ?」
「いや、だからそういうんじゃねえから」
――って、言えるわけねえだろうが……! あんたが可愛すぎて胸が痛くなった、だなんて。
「もう収まったから大丈夫だ。何の問題もない」
気を取り直すかのように深呼吸をし、調理場がある部屋へと移動する。
「とにかく、やれるところまでやるぞ。今夜は寝せないからな、覚悟しろよ?」
「ええ、お願い。今度こそ……今度こそ絶対に、美味しい料理を作って見せるわ」
リュシールの蒼い瞳には、強い意志が輝いていた。
* * *
「よし、ここまで練習すれば、まあ大丈夫だろ。いいか、明日はとにかく焦らず、量や手順を間違えずに進めろよ」
「ええ、わかったわ」
「さっき俺が料理したものを置いていく。盛りつけはそれを参考にしろ」
「ありがとう、感謝するわ」
「今夜、あんたが料理するときに側にいてやることはできねえが……とにかく落ち着いてやれば大丈夫だ」
がんばれよ、と何度も励まして、ノエルはリュシールの部屋をあとにした。
時刻は早朝の四時半。
そろそろ空が白み始める頃だった。
――まさかこんなに時間をとられるとは……急いで帰って準備しねえと、勤務開始時刻になっちまう。
ノエルにとっては勝手知ったる王宮だが、今の自分はシャルマン・クレールだ。
リュシールの侍女の案内に従うふりをして、早足で王宮内を進む。
「こちらですわ」
次の角を右。そして次の角を左。
階段を三階分降りて、裏口から庭園に出て。
そうして昨夜、馬車を降りた場所までやってきた。
「シャルマン様、あそこです。あの馬車を使って戻っていただければ――あら? どなたかいらっしゃる……?」
侍女がふいに足を止めた。
「いけませんわ……! シャルマン様、隠れてくださいませ……!」
しかしノエルはその場から動かなかった。
――ああ、やっぱりそういうことか。
納得しつつも、「ちっ」と舌打ちをして、息を整える。
馬車の近くの柱に、寄りかかるようにして立っている男。
「おやおや? このような時間から王宮をうろつくなんて、いったいどこの野良猫かなぁ?」
言いながら、こちらにやってくる彼のことを、ノエルはよく知っていたのだ。
――ちくしょう。俺がシャルマンを名乗っていることなんて、お見通しだった、ってわけか。




