第十四話 恋を知る
八年前の出来事については、些細なことでもよく覚えている。
なぜならその頃は、ノエルにとって大きな転換期。
アストレイ家に引き取られたのちに近衛隊に入隊し、王宮という至高の場所に足を踏み入れる――まさに激動の時期だったからだ。
近衛隊に入隊したばかりのノエルは、周囲から大いに注目された。
侯爵家の長男であり、やけに優れた容姿の持ち主。
それらは周囲からの羨望や好意、または嫉妬や悪意など、様々な感情を集める要因となった。
だからこそノエルは、日々の仕事に熱中し、努力した。
偽りの噂話など、実力でねじふせてやる。
そう決意し、夕方までの通常勤務が終わったあとに、ひとり自己研鑽に励んだのだ。
その頃、平隊員として近衛隊の宿舎で寝泊まりをしていたノエルには、私的な空間など無いに等しかった。
そのためひとけのない西の庭園で数時間、剣を振ったり、戦術に関する書を読んだり――そうして毎日を過ごしていたのだ。
――いつだったか……自主訓練を終えて宿舎に戻ろうとした時、ベンチに置いた上着の横に、手紙があることに気づいて。
『お姿をいつも拝見させていただいております。どうかご無理をなさらないでくださいませ』
レース模様の便箋に、教養を感じられる文字で書かれたメッセージ。
手紙の横には、汗を拭くための真っ白いタオルが置かれていた。
またその三日後には。
『お疲れのように見受けられました。どうかゆっくりお休みいただけますように』
そう書かれた手紙と、安眠効果があると言われる花の香りが付いたハンカチが。
さらにその三日後には。
『寒くなってまいりました。お風邪など召されませぬよう祈っております』
と書かれた手紙と、質の良いブランケットが置かれていた。
ノエルが出世し、自主訓練の時間が取れなくなるまで、その手紙は続けられた。
いったい誰なんだろう? と、もちろん気になった。
けれどその頃のノエルは、周囲に自分の実力を認めさせることで精一杯だったし、まだ女遊びを覚える前のことだった。だから積極的に相手を探すこともしなかったのだ。
――とは言っても、あの頃、その手紙の言葉に励まされていたのは事実で。
今思えば、ノエルにとって大きな存在だったのかもしれない。
先日のセドリックの質問。『それとも本気の恋人にはまた違う顔を見せるのかな?』との問いに、その手紙の存在を思い出してしまう程度には。
――まさかその送り主が、この王女だったとは……。
信じられない。
ノエルは唇を噛んだ。
目の前に座るリュシールは、戸惑ったように視線を泳がせている。
ノエルにいきなり肩をつかまれて、どうしてよいのかわからないのだろう。
「あの、ノエル様……」
やがてリュシールがびくびくした様子で口を開いた。
「八年ほど前に、あなたがおひとりで訓練をなさっている頃に……あなたのお荷物の横に置かれていた手紙のことを、覚えていらっしゃいますか……?」
――もちろん覚えてるさ。
流れるように書かれた美麗な文字で、内容は常にノエルを気遣うもので。
それでいて名を書かないところが、控えめで好ましくて。
それが、当時、若干九歳だった彼女が書いたものだったとは。
「ノエル様……あの、覚えていらっしゃいませんか……?」
リュシールは大きな瞳でこちらをじっと見つめてきた。
「あれは……あれを本当にあなたが?」
ノエルが問えば、「はい」と返ってくる。
「あの頃、あなたに声をかけることは叶いませんでしたけれど、どうにかわたくしの気持ちを知っていただきたくて……。あの、わたくしが書いた手紙は、あの頃、読んでいただけていたのでしょうか……?」
ノエルは無言で首を縦に振った。
――読んださ。毎回。
すると彼女の顔が、たちまちほころぶ。
「嬉しい……!」
それは花がこぼれるような、喜びが弾けるような、なんとも愛らしい笑顔だった。
「あの頃のわたくしに教えてあげたいわ。ノエル様が手紙に気づいてくださっているか、中を読んでくださっているか、毎日、そればかりが気にかかっていて……ありがとうございます。本当に、嬉しいです」
その直後、ノエルは自身の身体に異変を覚えた。
――なんだ、これ……動悸がする。不整脈か?
気付けば鼓動がどきどきと高鳴っていた。
なぜか苦しくて。
居ても立ってもいられないような心地に陥って、胸が痛くなる。
「えっ……ノエル様?」
リュシールが目を丸くした。
なぜ? と問わなくてもわかった。
ノエルが頬を赤くしたからだ。
――いったいどうしちまったっていうんだ、俺!
急に自身を襲った変化に、ノエルは対応できなかった。
熱くなる身体。早鐘を打つ心臓。
彼女の前でどのような表情をしていいのかわからなくて、無意識のうちに口元を手で覆う。
――だめだ……! 一度、立て直せ!
「殿下、ひとまずこちらにいらしてくださいませ」
「えっ……」
ノエルはリュシールの腕をつかむなり、早足で歩き出した。
「ノエル様、いったいどうなされたのですか?」
戸惑う彼女をよそに、皆がいる場所――アナイスやその夫、そして近衛隊が警備する場所まで強引に連れて行く。
「アナイス様、そろそろお時間です。取り急ぎ王宮に戻りましょう!」
「なによ、ノエル。戻ってきたと思ったら、いきなりうるさくするのはやめてちょうだい」
「そうだぞ。今、私とアナイスは愛を確かめ合っているところだ。王宮に戻るのはもう少しあとで――」
「そのようなことは馬車の中であらためてやってください。さあ、早く乗って!」
ぎゅうぎゅうと押し込むようにして、皆を――もちろんリュシールのことも、馬車に乗せる。
そしてすぐさま王宮に向かって出発させたのだが。
――なんだ、この状況は……なぜいつまでも動悸がおさまらない?
どきどきと高鳴る鼓動は、いつまでたっても落ち着こうとはしなかった。
* * *
「それは恋だね。おめでとう、ノエル。ようやく本気の恋を知ったのか」
その晩、ノエルはいつもの酒場でセドリックと飲んでいた。
「って、やめろセドリック。この俺が? あいつに? そんなわけねえだろうが!」
彼の言葉を激しく否定しながら、握った拳をテーブルに叩きつける。
「そうだ、あれはたまたま身体の調子が悪くて、一時的に熱が上がって顔が紅潮した上に不整脈が起きて動悸がしただけで……! 断じて恋なんてもんじゃない!」
「本気でそう思うのなら今すぐ病院に行ったらどうだい?」
「いや、今はすっかり落ち着いたからな。その必要もない」
「あがくねぇ。これだからその年まで恋をしたことのない男は面倒くさい」
セドリックは苦笑する。
「おい、俺と喧嘩したいのなら今すぐ買うぞ?」
「君に勝てるとは思えないから遠慮しておくよ」
降参だ、と言いながら、セドリックはワインをあおった。
ちっ、と舌打ちをして、ノエルもグラスに口をつけた。
と、階下から酔っ払いが歌う声が聞こえてくる。
週末だからか、店内はいつにもまして賑やかだ。
「……で、真面目な話、本当に恋ではないと?」
いい加減しつこいなと、ノエルは眉根を寄せた。
「もうこの話は終わりだ。色ボケのおまえに意見を求めた俺がバカだった」
けれどセドリックは、「まあそう言わずに、もう少しだけ」と、続けようとする。
「先ほどの君の話をまとめると、一方的に想いを寄せられ、わずらわしく思っていた相手が、一時期、君の支えになっていた大切な存在だったと知った。その途端に君の身体に異変が起こった。――そういうことだね?」
「大切だとまでは言ってねえぞ。王宮に入りたての頃だったからな、印象的で覚えてただけだ」
勝手に脚色されては困る。
「で、君はなぜそれを恋じゃないと決めつけるんだい?」
「相手がとんでもない女だからだ」
まだ平隊員だった頃の自分に送られ続けた手紙。
それの主が、まさかのリュシールだった――そうと知った時には、さすがに動揺した。
けれど、相手はあのリュシールだ。
「性悪で、わがままで、横柄で……しかも犯罪レベルのストーカー行為を平気でする女だぞ?」
ノエルはひとりごとのように呟く。
「ではその彼女のことを、可愛いと思ったり、好ましく思ったりしたことは一度もないと?」
「可愛い? あいつのことを?」
あるわけねえだろうが、と、拳を握った。
「まあ、強いて言うなら容姿か? あの顔はさすがの俺でも見惚れるくらいに美しいからな。だが性格は最悪だ。世間知らずで騙されやすい上に向こう見ずだから、野放しにしておいたらとんでもないことになりそうで放っておけねえし……それから猪突猛進タイプだから、何をしでかすかわからなくてひやひやするし……まあ、それらは全部俺に好かれたいがためにする行動だからしかたねえと言えばそれまでなんだが、バカな犬みたいにとにかく俺のあとを着いてくるから、まあだんだん可愛く思えてきたと言えばそうかもしれねえが――」
と、そこまで言ってはっとした。
「いや、今のは間違えた。決して可愛くは思ってねえぞ? ただ駆け引きとかをまったく知らないアホだから、俺への気持ちも純粋そのものというか、他の男が相手だったらとっくに騙されてるだろうなーとか思うと、このままあいつを放り出すのもどうなんだ? とか思っちまうし、そうなるとつい大事にしてやりたくなっちまうっていうか――」
――って、何を言ってるんだ、俺は!
「セドリック……! 頼む、俺を黙らせろ……!」
「その役目は僕じゃないな」
セドリックはくすくす笑いながら、階段を指した。
「ほら。君を黙らせるのは彼女の役目だろう?」
促されて視線をやると、そこには金髪碧眼の美しい彼女――リュシールが立っている。
「――っ!」
ノエルは無意識のうちに立ち上がり、彼女の元へと急いだ。
いつもだったら、またこんなところに来たのか! と叱るところだが、今日に限っては。
「よく来てくれた……! 頼む! 俺の目を覚ましてくれ!」
シャルマンになったノエルは、リュシールの両肩を手でつかむ。
「はあ? 何よいきなり」
心底わずらわしそうに、胡乱な眼差しを向けられる。
「ちょっと、わたくしに勝手にさわらないでといったでしょう? せっかくあの方にさわっていただいた肩なのに……汚れるわ!」
リュシールはゴミをはらうかのように、ノエルの手をぴしゃりとはねのけた。
――そうそう、これだよ、これ。この女はノエル以外にはこういう態度をとる性悪女なんだよ!
今すぐ正気に戻れ、俺。こいつに恋心など抱くわけはない!
ノエルは現実をかみしめる。
けれど。
――ノエル以外にはこういう態度? ……なら、ノエルには?
ふと考えた瞬間、『ノエル様……!』と、昼間、彼女が自分を見つめる眼差しを思い出した。
そして、満開の花がこぼれるような、愛らしい笑みも。
直後、ノエルはまたしても胸が締め付けられるような、身体の奥から熱がこみ上げてくるような、不思議な衝動に駆られた。
――また来やがった……!
誰に指摘されなくてもわかった。
自分の頬は今、赤くなっている。
そしておそらく、視線も不自然に泳いでしまっている。
――まじか……! 勘弁してくれ!
ノエルは口元を押さえながら、よろよろと席に戻った。
「……だから言っただろう? ノエル――じゃなくて、シャルマン?」
鼻歌を口ずさむような調子でセドリックが言う。
「いや、俺は認めねえぞ……! 絶対に認めねえからな!」
ノエルは大きな溜息を吐くと、勢いよくテーブルに突っ伏した。
「ねえ、いったい何なのよ。どうしたって言うの?」
しつこく絡んでくる、リュシールの声には、応えることができなかった。




