第十二話 あなたを守りたい
――ちょっと待て……!!
嘘だろう?
なぜ彼女がここにいる!?
予想だにしない展開に、ノエルは軽い恐慌状態に陥った。
「その剣を下げなさい!!」
金色の長い髪と、濃紺のドレスの裾が、ひらりと風になびく。
彼女はあっという間にノエルの前まで走ってくると、両手を広げ、ノエルを守るように騎士の前に立ちはだかった。
「リュシール殿下……! なぜここに!」
「ノエル様、ご無事ですか!?」
「とりあえずお退きください!」
小声で言って、彼女を自分の背後に下がらせる。
しかしリュシールは、「嫌です!」と、ノエルの手を振り払い、再び前に出た。
そればかりか胸元から護身用の小刀を取り出し、刃を相手の騎士へ向けようとする。
「そこのおまえ、名乗りなさい! いったい何者なの!? なぜノエル様に剣を向ける!? 今すぐ理由を述べなさい!」
「殿下……!」
ノエルは即座に守り刀を取り上げた。
「あっ、なぜ……!」
「なぜじゃありません! あなたはいきなり何をなさっているのです!」
「だって、この者がノエル様に……! ノエル様が怪我でもされたら、わたくしは……!」
「それは私の言葉だ! あなたに傷ひとつつけるわけにはいかないのですよ!」
「わたくしのことはどうでもよいのです!」
「は?」
あまりの勢いに、ノエルは気圧された。
「ど、どうでもって……そんなわけないでしょう!」
「それよりも、ノエル様のほうが大事だわ! あなたに何事かあったら、わたくしはとても普通ではいられません!」
「あなたは、なにをばかげたことを……」
「わたくしは、あなたのことを守りたいのです!」
リュシールはふたたびノエルに背を向け、相手の騎士と向かい合った。
「すべてのものから、あなたのことを守りたいのです!」
「――っ……!」
その瞬間、頭を鉄槌で殴られたかのような衝撃を受けた。
――守りたい? この俺のことを? この女が?
ごくり。
無意識のうちに息を飲む。
気がつけば心臓が、うるさいくらいに早鐘を打っていた。
――この女は、いったい何を……。
「そのようなことを言われても……困ります」
ノエルは言った。
なぜだが胸が苦しかった。
心臓をぎゅうっとつかまれるような、何とも言えない不思議な感覚がして。
自分の中の何かを彼女に支配されてしまうような、そんな心地だった。
「……困ります」
もう一度、ノエルは言った。
「これ以上、私の中に入りこまれると、困るんです」
もちろん意味を理解することなどできなかっただろう。
こちらを振り返ったリュシールは、「え?」と、首を傾げている。
「ノエル様……それはいったいどのような――」
その時、先に公園の中に入っていたアナイスやセドリックたちが戻ってきた。
こちらの騒ぎに気づいて引き返してきたのだろう。
「ノエル! 何事だ!?」
すぐさまセドリックが剣を抜こうとする。
「待て」
それを制止し、ノエルはアナイスに言った。
「アナイス様、お客様がいらしております」
というか、痴話げんかなら当人同士で勝手にやってくれ。
喉まで出かかった言葉を、なんとかのみ込んだ。
「あなた様の御夫君――ドイトリア王国の皇太子、アルベルト・ド・イリア・ドイトリア殿下でございます」
直後、リュシールやセドリック、ノエルの部下たち皆が、吃驚仰天する。
「え……? お姉様の……?」
「ノエル、どういうことだ? 本当にドイトリアの皇太子殿下なのか?」
「いったいなぜこのような場所に……」
戸惑いに支配される皆の視線が、アナイスに集まった。
しかし当の本人であるアナイスは、なぜか満足げに微笑んだ。
一瞬のことだったが、ノエルはそれを見逃さなかった。
そしてようやくわかったのだ。
これといった用事もないのに、アナイスが市街地を散策し続けた理由がここにあったのか、と。
――なるほどな、これが目的だったってわけか。
夫である皇太子が自分に接触しやすいよう、あえて王宮を出てきたのだろう。
「アルベルト……あなた、どういうつもり? わたくしはあなたからの面会要請をすべて断ったはずよ」
アナイスは一転、冷ややかな眼差しを夫に投げた。
「何度来られても会うつもりはないわ。今すぐドイトリアに帰ってちょうだい!」
――よく言うぜ。待ってたくせによ。
「アナイス……頼む、話を聞いてくれ! 君は大きな誤解をしている!」
一方の皇太子は、焦った様子で、かぶっていた帽子を地面に投げつけた。
「誤解とは何? あの女とあなたがわたくしの目を盗んであなたの執務室で密会していたということ? それともあなたがあの女に莫大な金銭的援助をしていたということ? それとも――」
「まさしくそれらが誤解だと言っているんだ!」
ずかずかとアナイスの前に進んだ皇太子は、彼女の腕をつかむ。
「ノエル、わたくしを守りなさい! 護衛の騎士でしょう!?」
「承伏いたしかねます」
あほか、と、ノエルは胸中で毒づいた。
「なっ……ノエル! 命令に背くというの!?」
「アナイス、いいからこちらを向いてくれ!」
皇太子が強引に彼女と向き合った。
「誤解を解かせてくれと何度も願ったのに、君はなぜ僕の話をまったく聞かずに出て行った!? しかもこの五日間、君を訪ねた僕を袖にして……まずは僕の話を聞いてくれてもいいだろう?」
「聞く必要は無いと判断したからあなたの元を去ったのよ! 今さら訪ねてこられても困るわ!」
「聞く必要がある話か否かは、せめて聞いたあとに判断してくれ!」
なんだこの茶番は。
腕を組んだノエルは、背後にある馬車に背をあずけた。
――こんな場所で一国の皇太子夫妻が痴話喧嘩とは、情けねえな。
気づけば街の人々が通りのあちこちで足を止め、こちらの様子をうかがっている。
「なによ……そんなに言うならさっさと言い訳しなさいよ! けれどわたくしは騙されないわ! あなたの浮気を許すことなんて到底できな――」
「アナイス、今日は僕たちの三度目の結婚記念日だ」
――あ? 何の話だ?
ノエルは思わずぽかりと口を開けた。
「これを君に受け取って欲しい」
そう言うなり皇太子は、腰にさげていた鞄から、両の手のひらに乗る程度の大きさの箱を取り出す。
「何を贈ろうかここ数か月、悩みに悩んだ。君の好きな紫水晶を使ったアクセサリーにしようと決めて、宝石商にとびきり美しい石を見つけてもらった。それを隣国の有名なデザイナーに頼み、ネックレスに仕立てた。それがこれだ」
箱の中には、それは見事な宝飾品が入っていた。
驚くほど大きな紫水晶と、それを縁取るように置かれたダイヤモンド。
さすが一国の皇太子だ。目玉が飛び出るほど高価なものだろう。
「君を驚かせたくて……今日まで気づかれたくなくて、デザイナーの女性とは僕の執務室で打ち合わせをした。君に気に入ってもらえるであろうものが出来上がった際には、それ相応の金額を彼女に渡すよう、侍従に命じた」
「そんな……ではわたくしが見たのは……」
「この話を君が信じてくれないというのなら、もう僕には打つ手がない。けれど誓って嘘は言っていない。僕は君に対して後ろめたく思うようなことなど、なにひとつしていないんだ!」
「アルベルト……!」
「僕は君を愛している! 婚約者として始めて君に出会ったあの日から、今日までずっと……! 君と共にいられぬ未来など、もう絶対に考えられない! だからこうして秘密裏にこの国にまで来た! この誤解をなんとか解いて、君に僕のもとへと戻ってきてほしいから……!」
「アルベルト……!」
「頼む、もう一度、僕を信じてくれ! 僕と一緒にドイトリアに――」
「アルベルト……! 愛しているわ!」
アナイスが皇太子の胸元に飛び込むように抱きついた。
――って、だからなんなんだこの茶番は!
開いた口が塞がらないとはまさしくこういうことだ。
「アナイス……!」
「アルベルト……!」
名を呼び合いながら熱い抱擁を交わす二人を前に、ノエルはただただ唖然としてしまう。
「ごめんなさい、わたくしったら、大きな勘違いをしてしまって……!」
「いや、誤解だとわかってくれたのなら、それでいい」
「あなたを愛しているのよ。だからこそあなたが他の女性と一緒にいることが許せなくて……」
「嬉しいよ、アナイス。それほどまでに僕を想ってくれているんだね」
ふたりは少しの隙間も見当たらないほどに身を寄せ合い、そのまま熱い口づけを交わし始めた。
――って、いくらなんでもやりすぎじゃねえのか!? ここはあんたらの寝室じゃねえぞ!
「リュシール殿下、あなたはごらんにならなくてよろしい」
おかしな影響を与えられたらたまらないと、ノエルはリュシールの目元を手で覆った。
しかし彼女は、ノエルの手からするりと逃げた。
「お姉様、いったいどういうことなの!?」
怒りながら、いちゃつく夫婦の間に割って入ろうとする。
「結婚なんて、ただの契約だと言っていたじゃない! ノエル様のことを自分のものだって――」
「殿下、今はその話はおやめください」
ノエルは即座にリュシールを引き戻した。
「そもそも私とアナイス様の間には、やましいことなど何もないのです」
「えっ……そうなのですか!? でもお姉様は――」
「あれはアナイス様のご冗談です。あなたはアナイス様にからかわれたのですよ」
「からかわ……? そうなのですか……?」
「そうなのです」
こうなったらもう、真実を告げるしかない。
なぜならアナイスの夫の前で、彼女とノエルとの偽りの関係を喋られては困るからだ。
――真に受けた皇太子に勘違いされたらめんどくせえからな。
婚約破棄を願うノエルの企みは、あっさり頓挫してしまう。
「さあ、私と一緒にこちらに来て」
「え……?」
「あなたにお話があるのです」
「ノエル様!?」
戸惑うリュシールの手を引き、公園の中へと連れて行く。
「ノエル様、あの、わたくし姉に不満が……! からかわれたのならなおさら、文句のひとつでも言わせていただかないと気が済みませんわ!」
「文句なら、私が代わってお聞きしますよ。あなたのお気のすむまで、どれほどでも」
すると彼女は、途端におとなしくなった。




