第十話 恋は盲目
「なっ、なんだってんだ、いきなり」
急に泣き出したリュシールを前に、ノエルは焦った。
「もう、だめかもしれない……」
リュシールは消え入りそうな声で言う。
「何が」
「いろいろよ! もうすべて! あのことも知られてしまったし……!」
「知られた? っていうと、あんたのその性格の悪さか? それとも税金を使い込んでることか? もしくは婚約者にストーカー行為を働く犯罪者予備軍で通報されたら逮捕される可能性もあるってことが――」
「税金の使い込みなんてしていないわ! それにそういうことではなくて!」
「じゃあなんだ」
「だから、もうあの方とは結婚できないかもしれないってことよ!」
リュシールは両手で目元を覆い、うわあっと勢いよく泣き始めた。
「いや、ちょっと待て、落ち着け」
「落ち着いてなんていられないわ! もうどうすればいいのか……!」
「だからってここで泣くな! はっきり言って超ド級に迷惑だ!」
「お父さまを脅したこと、まさかあの方に知られてしまうなんて……! いいえ、それよりあの方とお姉様が……!」
「だからとりあえず落ち着いて俺に話してみろ! な? で、泣くのは家に帰ってひとりでやれ!」
「どうすればいいの!? なぜ今になってお姉様が邪魔をするの!? なぜあの方の前であのようなことを……!」
「ああ、もう! なんだってんだ!」
いろいろと煩わしくなったノエルは、リュシールをぐいと引き寄せ、自分の胸に顔をうずめさせた。
泣き止まない女をなだめるにはこうするに限ると、彼女の髪や背を、優しい手つきで撫でる。
けれど。
「――やめなさい」
ノエルの手は、ぴしゃりとはらいのけられた。
「わたくしにふれていいのは、あの方だけよ」
ノエル様、と、彼女はその名をつぶやく。
「わたくしの愛するノエル様――あの方だけが、わたくしのことを好きにできるの」
こちらに向けられた青い瞳には、確固たる意志が宿っていた。
――これは。
ぞくり、と心が震えた。
その気高さに、揺るぎのない眼差しに、すっとのびた背筋に。
なんて美しい女なのだろう。
この時ばかりは、そう思ってしまったのだ。
「……だったら泣くな」
椅子に座ったノエルは、なげやりに言った。
「なぐさめられたくないなら、俺の前で泣くんじゃねえ」
胸に覚えた高揚感をなんとか打ち消そうと、彼女から視線を外す。
――なんだ、この感情は……まさか魅了されたのか? この俺が? たかが十七歳の女に?
生まれて初めて抱いた感情に、ノエルは戸惑っていた。
「……で? いったいどうしたっていうんだ。ちゃんと話してみろ」
折良くワインが運ばれてきた。
リュシールはようやく席に着く。
「ほら、拭け」
ポケットから取り出したハンカチを差し出せば。
「……借りてあげるわ。そう悪い品でもなさそうだし」
なんとも憎らしいせりふを吐きながら、そのハンカチで涙をぬぐった。
――そうそう、こいつはこんなにも傲慢な女だ。騙されるな、俺。とにかく落ち着け。
自分に言い聞かせながら、彼女に本題を投げる。
「で? あんたが『結婚させてくれなければ死んでやる!』と、親を脅したことが、相手の男にばれちまったって?」
「なぜそんなにも詳しく知っているのよ」
「しかも? あんたの姉とその男の関係があやしいって? 過去に何かありそうなんだな?」
「だからなぜそこまで……」
と、そこでリュシールははっと目を見開いた。
「あなた……本物だとはわかっていたけれど、まさかそこまで詳細に言い当てられるなんて素晴らしいわ! やはり占い師としては超一流ね!」
――いやいや、そろそろ気づけよ。どう考えてもおかしいだろ。
「まあ、親を脅迫したのが知られたのはどうでもいいとして……あんたの姉とのことは、さすがに見過ごせねえよな?」
「あの方……二年ほど、姉の警護をしていたの。どこに行くにも、いつも一緒で……姉が嫁いでいって、それきりだと思っていたけれど、姉のあの発言だと、もともと二人は恋人関係にあって、姉の結婚後も連絡を取り合っていたのかもしれない……」
――おお、なかなかいい傾向だな。
このまま深読みして、二人の関係を誤解してくれれば僥倖だ。
ノエルは「そうだな」と同意する。
「そう考えるのが妥当だろうな」
「そんな……!」
リュシールはテーブルに突っ伏した。
「まさかお姉様と、だなんて……!」
「こればっかりはどうしようもねえよな。向こうにしてみれば、急に割り込んできたあんたが邪魔者かもしれねえし」
で? どうする? と、ノエルは問うた。
「姉と関係のあった男なんて、さすがに嫌だよな? 即座にお断りだろう?」
もちろんリュシールが、「ええ」とうなずくことを予想して。
けれど彼女は、ノエルの予想を超えた。
「絶対にだめよ……お姉様とだなんて、絶対にいけないわ!」
「いけないって……ならどうするつもりだ」
「あの方……きっとお姉様に騙されているのよ。いいえ、きっとじゃなくて、絶対にそうだわ。だってお姉様って、相当な悪女ですもの!」
――って、そうきたか!
「いや、そうとも限らねえだろ? そもそも相手のことを好きじゃなければ恋人関係になんて――」
「確実にそうよ! 断言するわ! 性根の悪い魔女のようなお姉様に、完全に騙されているのよ!!」
「おー……っと、まじかー……」
戸惑いが声になった。
まさかそうくるとは。
恋は盲目だとはよく言うが、盲目過ぎて、もはや頭までおかしくなっているとしか思えなかった。




