体験
ペコリと頭を下げて診察室を出て行く患者を見送ってから、そっとドアを開けてみた。
最近導入した空気清浄器が働いているおかげでキレイなはずの待合室は、マスクをして俯いている人で埋め尽くされ、本当に清潔な空気なのか定かではない。薄く流しているクラシック音楽のせいだろう、眠っている人もいる。ざっと見て6人。あと6回も実のない話をするのかと思うとげんなりする。ドアを閉めて椅子に戻ると、コンコンと遠慮がちなノックの音が聞こえた。「どうぞ」と返事をするとドアはゆっくり開かれ、不健康そうな顔が覗いた。
「やあクガイさん。どうぞ」
痩せた青年は俯いたまま対面の椅子に座った。自分からは何も言わないので、こちらから話を始める。
「どうですか、最近の調子は」
「……はい、そこそこです」
表情はマスクに隠れていて分かりづらいが、消え入りそうなその声色からは、とてもそこそこの調子だとは思えない。
「前回話したマイペースは、保てていますか?」
できるだけ声のトーンを柔らかく上げて聞いてみる。クガイさんは苦しそうに顔を上げて言った。
「マイペース、できていないです」
「ああ、それは苦しいね。マイペースでいけないと、しんどいよね」
クガイさんは言葉を選ぶように話し始めた。
「周りのみんなはいつも喧嘩ばっかりしていて、本当に何でもないことから言い合いが始まります。どちらかが折れれば良いのにって思うけど、全然そんなことしない」
「そうなの。クガイさんも何か言われるの?」
「いえ、自分が何か言われることはないです。でも、怒鳴り声が耳に入ってくるたび、自分が責められているような気がして、とっても苦しいです」
クガイさんの目は、真剣に何かを訴えていた。相槌を打ちながら、どんなアドバイスが適切か瞬時に頭を巡らせる。このケースに適した答えはすぐに見つかった。
「クガイさん。そうした時は、避難するのが大事です」
「避難、ですか?」
「そう。波と一緒で、引いている時はそこにいても大丈夫。でも寄せてきた時はその場から離れないといけない。なに、トイレに行くでも何でも良い。自分にとって難しい言葉が飛んできたら、とにかく避難することが大切ですよ」
ヒナン、ヒナン……クガイさんは俯き加減に、同じ言葉を何度も反芻した。
「それができれば、マイペースに繋がっていく。避難することを意識してやってみると良いですよ」
「……分かりました。ありがとうございます」
クガイさんはなおも何か言いたそうな顔をしながら立ち上がり、一礼して部屋を出て行った。
その姿を見送り、ドアが閉まったのを確認してからふうと息を吐き、天井を見上げた。やったことはないが、タバコを吸っていたらこんな感じなのだろうかとふと思う。
精神科医として、患者のあらゆる悩みにアドバイスすることはできる。だけどそれはあくまでアドバイスだけ。その人の生活を変わってやることはできない。最近は、誰を何回診察してもどこか空虚な感じが抜けない。すっかり慣れ切ってしまったということか。
部屋に入ってくる人ひとりひとりにアドバイスをする。何だか似たようなことばっかり言っていないかという思いが頭をよぎるが、気にせず続ける。気づけば本日の診察はすべて終了していた。
戸締りは事務員に任せてクリニックを出る。外の空気をひとつ吸うだけで身体が内側から冷えたが、あの待合室に比べたら幾分マシな気がした。でも、こんな寒さではのんびり歩いていられない。急いで車に乗り込み、暖房の効いた我が家へと出発する。見通しの悪い小道だが人通りが少ないことは分かっている。少し飛ばすことにした。
その瞬間、曲がり角から自転車が飛び出してきた。反射的にブレーキを目いっぱい踏み込む。自転車は勢い良く倒れた。視界から色が消えた。急激に鳴り響く心臓の音が耳を支配する。無心で車から飛び出して様子を確認する。幸い自転車にぶつかってはおらず、倒れた人もどこか恥ずかしそうに立ち上がって、そそくさと行ってしまった。
しばらく何も考えられず、呆然と立ち尽くした。横からバイクが追い抜いていく。その後ろ姿をぼうっと眺める。
不意に、今日診た患者『クガイさん』の何かを訴えかける顔が浮かんだ。バイクからクガイさんの声がする。
自分が立場にならなきゃ、本当の苦しみなんて分からない。
クガイさんはバイクじゃないはずだし、もうとっくに帰っているだろうからあれは全くの別人のはずだ。それでも、あの後ろ姿がボソボソと、繰り返し言っている気がした。