三年の変化
夏の風が梢を揺らす。その音を耳元に感じながら、グレアムは楠の太い枝の上にしゃがみ込んでいた。右手は幹に置き、左手には僅かに反った杖を持って、目を閉じている。
やがて、深海色の瞼を開くと、懐を弄り、鎖に繋ぎ首にぶら下げた掌に乗るほどの小さな鏡を出した。
「確認しました。います。七体です」
鏡に吹き込むようにそう言うと、多いな、と小さな驚きを湛えたトラヴィスの声が、茂みの向こうからでなく、手元の鏡から返ってきた。この鏡はいわば通信魔法具だ。グレアムが猫のサリックスを使い魔にしたことにヒントを得たマシューが開発し、改良を重ねてきた。鏡に向かって話しかけると、相手に声が届くようになっている。
『〈陸魚〉だろ? そんなに群れる奴らだったっけ?』
「知らんが、現に集っている。サリーの目を疑うはずもない」
『だよね。信じ難いけど……』
こっちより数が多いというのが厄介だ、と鏡の向こうからマシューの呟く声が届く。
『どうします?』
『適当に狩りましょう。理想は一頭ずつ誘き出すことです』
できますか、というメイリンの声に、グレアムは頷いた。
「やります」
そうしてグレアムは鏡を手放し、枝の上に立った。器用に二本の枝の股に足を置くと、奇妙な棒を垂直に構える。右手を棒の中心辺りに持っていき、手前に引き寄せながら両腕を下ろす動作をすれば、棒の端と端を結ぶ魔力の糸が現れた。それはまるで弓。現に、グレアムの右手には、弦に番えた矢のような形の魔力の塊が顕現している。
グレアムはもう一度目を閉じた。瞼の裏で視界が切り替わる。少し離れた先にいるサリックスの猫目を通した景色は、グレアムの場所からは見えなかった魔物の姿を確実に捉えていた。白く硬質な皮膚を持った犬とも魚ともつかない姿。森の茂みを縫ってのしのしと歩く魔物の群れ。自分の眼と変わらぬ見え方に疑問を抱いたのはもう昔の話だ。
グレアムは、サリックスの視界から魔物の一頭を定めると、そのまま魔力でできた白い光の矢を引き絞り、放った。グレアムの視界では矢は森の奥へ飛んでいくだけだが、サリックスの視界では矢が魔物に着弾している様子が見えた。突然の攻撃に、魔物は魚のような頭蓋を上げ、訝しそうに辺りを見回した。
そこにもう一度、グレアムは魔力の矢を放つ。攻撃の気配を感じたその魔物は、矢の飛んできた方向へと駆けていった。
グレアムはそこで、サリックスとの視界共有を一度止める。
「一頭行きました」
鏡を掴み、そう伝えると、メイリンから返事があった。リチャードと二人で対応するのだろう。あの魔物は彼らに任せることにして、グレアムは再びサリックスの視界を共有し、もう一頭を誘き寄せにかかった。今度はトラヴィスとマシューがそいつに当たる。
三年前、フレアリート砦に配属されたばかりのときから変わって、グレアムは使い魔との視界共有と、もう一つ、リチャードの計らいにより教授してもらった魔法弓を活かした戦いをするようになった。現在では、この二つの特技と持ち前の分析力を活かして、斥候や狙撃を行うことが多い。
かつて〈奔流〉を起こしたときとはもう違う。新たな技能と役割の習得によってグレアムは自信を得ていた。現在では砦の役に立てているという自負もある。
メイリンやトラヴィスたちが魔物を倒した頃合いを見計らって、また同じ作業を繰り返す。そして、サリックスが観測している敵の数が少なくなってきたところで、魔法矢の雨を降らせ、掃討した。
こうしてサリックスがグレアムの目となってくれているお陰で、グレアムの居場所から見えない敵もこうして攻撃できるようになった。もっともこれは、普通の弓矢による狙撃とは違い、標的さえ捉えてしまえばほぼ確実に当たる魔法矢の特性あってのことであるが。
「お疲れさまでした。今日のところは、これで引き返しましょう」
戦闘が終わり、一度集合して。メイリンの号令でグレアムたちは砦への帰途につく。三年も経てば慣れたもので、隊列も自然に決まる。メイリンとリチャードが前、支援担当のマシューを挟み、グレアムとトラヴィスが殿を務める。因みにサリックスは、グレアムの隣を踏まれないように器用に歩いている。
森は相変わらず鬱蒼としていた。夏盛りを過ぎて旺盛に伸びた枝葉は濃い深緑の陰を作り出し、日差しが遮られている所為か、夏と思えぬ空気の冷たさと風の爽やかさを感じさせた。時折通り過ぎる遺跡は、苔や蔦を纏いつつも、森に呑まれることなくその姿を晒し続けている。魔物がいるということと、怪奇現象があることを除けば、このティエーラ樹海は普通の森と変わらない、のだが。
道行の途中で、隣を歩いていたトラヴィスがグレアムに囁いた。
「最近、おかしくないか?」
「やはりそう思うか」
グレアムは眉を顰めて同意して、周囲を見渡した。生い茂っているのは変わらず。しかし、耳を澄ますと周囲が静かすぎるのだ。鳥の声、虫の声は小さく遠慮がち。獣たちも息を潜めている。一方で、魔物の行動は活発で、群れの数も群れの中の数も増えている。
「なんか森ん中がピリピリしてやがる」
普段ないほどに真剣なトラヴィスの表情に、グレアムもまた頷いた。
三年の月日、長いと呼ぶか短いと呼ぶかは知らないが、それだけの間、グレアムたちはこの魔の森を見続けてきた。草木の様子、生き物たちの様子、魔物の生態だって、ある程度のことは知っている。
その記憶と経験に基づく勘が、正体不明ながらも魔の森内の違和感を伝えてくるのだ。
「最近では、あの大人しい〈魔妖精〉まで凶暴化する始末だ。これでなにもないというほうがおかしい」
魔物もまたその存在は千差万別だ。人を見かけるだけで襲ってくるような者もいれば、大人しいものもいる。〈魔妖精〉と呼ばれる、人の掌くらいの大きさの虫の翅の生えた小人型の魔物がその一例で、彼女らはこちらが先に手を出さない限りは、襲ってくることはない。それほど無害な魔物たちでさえ、最近はすれ違っただけでも襲ってくるようになった。
普段大人しくあっても、魔物は魔物。〈魔妖精〉に至っては魔法を使ってくる。決して弱く油断できる存在ではないため、駐在兵たちはより一層魔物たちを警戒する必要が出てきたうえ、その対応に手を焼いていた。
明らかに異常事態だ、と砦の誰もが感じていた。
「……〈魔妖精〉って言えばさ」
ふとなにか思い出したのか、考え込んでいたトラヴィスは顔を上げ、グレアムのほうを振り向いた。
「最近話題の〈水の精〉、あれはどう思う?」
〈水の精〉。これは魔物のことではない。最近――といってもここ二年ほど、砦の傍にある水辺で見られるようになった女性の姿を、誰からともなくそう呼ぶようになった。そこは砦の女性がよく沐浴に使う場所であるため、はじめは駐在兵の誰かかと思われていたようだが、白いワンピース姿や月明かりに青色に光る神秘的な黒髪などから、砦の者ではないという判断が現在ではされている。
一時期は魔物では、と噂された。しかし、〈魔妖精〉などと異なって容姿も大きさも人間のそれに近く、類似する魔物もいないため、現在ではその可能性を除外されている。夜にしか現れないこと、それから魔の森などという立地の特殊性から、近隣住民であることもまずあり得ないということもあって、まさに〝謎の存在〟として砦内で話題になっていた。
「あれの正体も気になるところだ」
砦内での目撃者が増えていく中で、グレアムはまだ見たことがなかった。ほんの少しだけで良いから見てみたい、と思うのは、人の性なのだろう。
じっと足元から翠色の視線を感じる。猫なのに、サリックスもまた、妖精に興味があるのだろうか、などと考えた。
「だが……噂しか知らないが、不思議と脅威には感じない」
「まあ、危ない奴だったら、もっと別な騒ぎ方をするもんな。今頃討伐に動き出しているはずだ」
砦の先輩方が脅威に感じないというならば、その存在はさして気にする必要もないのかもしれない、というのが、グレアムとトラヴィスの結論だった。
「無関係……かなぁ」
「どうだかな」
首の後ろで手を組んで空を仰いだトラヴィスにそう返す。確かに、〈水の精〉の出現と魔物の異常は時期が被る。無関係と決定づけるのは早計だろう。
「訊けるといいんだけどな」
この魔の森の異変の理由、〈水の精〉の正体。これらを知ることができれば、〈氾濫〉の原因を究明することに繋がるかもしれない。そうトラヴィスは期待を高めているらしいのだが。
「無理だろう」
姿を見ても、接触した者は誰一人としていない。これもまた〈水の精〉が人でないと結論付けられる理由なのだが、彼女に気付かれると煙のように消えていくという話であるらしい。捕まえるのはまず難しい。
そうだよな、と少しばかり気落ちした様子でトラヴィスは呟く。
「この先、これ以上なにもなければいいんだけどな」
これ以上の面倒はごめんだ、と苦々しげにトラヴィスは言う。
〈氾濫〉に関して分かれば良い、と思う一方で、やはりこの影響がアメラス国内にまで及ぶことを思うとグレアムもトラヴィスには同意見だった。




