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いつかヘリアンサスに誓って  作者: 森陰 五十鈴
第三章 深雪、隠す
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リクエスト

「調子はどう?」


 食堂での朝食を前に部屋にやってきたサブリナは、起き抜けでまだベッドの中にいたジュディスの傍らで、白い布を張った椅子に腰かけてにこにこと明るい笑みを浮かべている。体調を悪くした朝、ワーズワース家に嫁ぐ前まで、姉がこうして頻繁に部屋を訪れてくれていたことをジュディスは思い出した。


 年末に魔法師院を訪れた際にロデリックに持ちかけられた提案を、ジュディスたちは受けることにした――正確には、ディックがジュディスに承諾させた。気分転換になるからだ、という。

 それから、ジュディスは魔法師院を訪問する前夜に猫から人間に戻り、魔法師院でロデリックとお茶した後に魔石に魔力を充填させながら再び変身する、という一連の流れが決定したのだ。

 それを聞いたサブリナが、だったら一度妹とゆっくり話がしたい、と言って、幼い息子たちを引き連れてウェルシュ家のタウンハウスに押しかけて来たのが昨日のこと。昨夜はお泊りにはしゃぐ子どもたちが騒がしかったので時間が取れず、二人きりの歓談は今朝に持ち越された。

 貴族の朝は遅いものだが、早起きに慣れた姉は身支度をきっちりと済ませていて、藍色の髪はきっちり編んで纏められ、藤色のタイトスカートのドレスを着て、今ジュディスの隣にいる。


「変身するようになってからは、比較的良いわ」


 対してまだネグリジェ姿、長い髪は緩く二つに結わえただけのジュディスは、姉を安心させるように微笑んだ。今回限りとはいえ、サブリナが夫を放ってこんな強行に出た理由を、ジュディスはきちんと察している。……心配性なのだ、姉弟揃って。


「でも、猫だから、することもあまりなくて」


 猫の手では本も開けないの、と面白おかしく言おうとしたジュディスは、歳の離れた姉を前に言葉を飲んだ。

 サブリナはいつも良い相談相手だった。八つもの歳の差は互いに女としての対抗心を失わせ、ジュディスは貴族令嬢の先達として姉を尊敬し、サブリナは自身の経験を生かして磨く教え子として妹を慈しんだ。

 だからこそジュディスは、家族の中で誰よりも姉に心の内を曝け出してきた。彼女ならジュディスに物事の良し悪しを指導してくれたから。


「……だから、一日中ぼんやりしていて。よく考え事をするの」


 作り笑いを止めたジュディスは、窓の外に目を向けた。春から秋まで様々な色合いを見せる庭は、雪で白に染まっている。暖炉には火が入っているから部屋はじんわりと暖かいが、窓ガラスは外からの冷気を僅かに招き入れているため、雨戸を開け放した窓際はやや寒い。


「それは、グレアムのこと……?」


 明るく努めることを忘れ、苦々しい物言いで尋ねるサブリナに、ジュディスは首肯した。

 ジュディスは、心の内の淀みを押し出すように深く溜め息を吐いた。人間に戻った所為だろうか、まだベッドから出てもいないのに、身体に疲労感を覚える。このあと出掛けるのが億劫だった。


「最近、よく思うの」


 視線を逸らしたまま、ジュディスは姉に胸の内を打ち明ける。


「私、グレアムのこと、自分を助けてくれる人だから好きだったのかしらって」


 雪に埋もれていく庭木の下に自分の感情(こたえ)があればいいのに。

 そんなことを思いながら、ジュディスは湿った雪が積もっていくさまをじっと見つめていた。


 姉は、今日ばかりは回答してはくれなかった。




「今日は、隣国の菓子を作らせてみたんだ」


 べちゃべちゃと溶けた雪が不快な音を立てる道を馬車で通い辿り着いた魔法師院で、ジュディスは到着するなりロデリックの居室に招かれた。先に片付けるべき仕事がある、と兄に置き去りにされたジュディスは、満面の笑みで茶色い菓子を勧める王太子に、たった一人で直面した。


とろけるチョコレートフォンダント・ショコラ。温かいから、今日みたいに寒い日にはもってこいだ」


 深緑の起毛のワンピースドレスを着たジュディスは、なんとも言えない微妙な表情で金縁の白い皿の上に載る小さく丸い黒褐色のケーキを見つめた。

 何故かは知らないが、ロデリックはいつもジュディスに菓子を与えてくる。そうすればジュディスが喜ぶと刷り込まれているかのように。

 子ども扱いされているようでいまひとつ納得がいかないが、ロデリックは御歳二十七。ジュディスと十近く離れているのだから、少しは仕方がない……のかもしれない。妹に対する扱いかと思えば、諦めがつく部分もある。


 ナイフでしっとりとした生地を二つに割れば、中からとろりとガナッシュが流れ出す。更に生地を一口大に切ってチョコレートを拭いながら食べると、まろやかな苦味とまったりとした甘味が口の中で広がった。人肌よりも少し熱い温度が恍惚とする味に更に磨きをかける。

 不覚にも、夢中で食べてしまった。

 我に返ったのは、満足そうに細められたロデリックの若葉色の眼を見てからである。

 ――王太子の前で、なんて緊張感のない……。

 用意されたコーヒーに口付けて、ジュディスは気を立て直した。紅茶に代わって珍しく用意された黒い飲み物がしつこいくらいの甘味を押し流し、頭をはっきりとさせてくれる。


「気に入ったのなら、ディックの分も食べるかい? きっと彼が来る頃には冷めてしまっていることだろうし」

「いえ、それはさすがに」


 食い意地が張っていると思われたら、令嬢としてはお終いだ。


 コーヒーを口に含みながら、時間を潰す。早くディックが戻ってこないか、と祈った。ただでさえ相手は王太子で緊張するというのに、更に二人きりだなんて、気まずいに決まっている。たとえ、マナーに則して入口が開け放してあるとしてもだ。

 カップの中身を見下ろすふりをして見つめた自分のドレスの色と部屋の絨毯の色を見比べて、もう少しドレスを考えればよかった、と後悔した。どちらも同じ深緑。ジュディスが絨毯から生えてきたようだ、なんてそんな下らない事まで考えて、現状から意識を逸らした。


「そういえば」


 ジュディスが脳内での逃避行を図っていると、カップをソーサーに置いたロデリックは、ふと口を開いた。


「君は楽器――それも、マディートを弾くんだってね」


 ジュディスはカップを持ったまま身を強張らせた。アメラス国では、貴族が楽器を弾くことを良しとしない。楽器演奏に関わらず、しきたりから外れるようなことをすれば社交界では眉を顰められることは必至。ジュディスの趣味は家族の誰もが認めてくれていたが、本来はウェルシュ家の体面に関わるものだった。

 表情を固まらせたジュディスの様子に気付いたロデリックは、安心させるように穏やかな声で付け加えた。


「ああ、貴族のつまらない慣例(しきたり)なんて気にしなくて良いよ。私は特に気にしない。殊に音楽に関してはね」


 安堵した傍らで、〝音楽〟を強調したのが少し気になった。ちらちらと問うようにロデリックのほうを見てしまう。


「……実は、結構好きでね。よく聴いているんだ。もの知らぬ幼い頃は、トロンボーンを吹いてみたいと思ったことがある」

「トロンボーン……ですか?」

「大きくて目立つだろう? あんな長い物を自在に吹けるのはカッコいいと思っていたんだ」


 子どもだよね、と恥ずかしそうにロデリックは笑う。


「だから、ディックからジュディス嬢が楽器を弾くと聴いて興味をそそられてね。是非一度聴かせて欲しいな、と」

「そんな、お聴かせするようなものでは」


 カップを置いた両手を広げて謙遜するが、


「そうかい? ディックはプロ級だと自慢していたけれど」


 膝の上に頬杖をついてにやにやと面白がるように若葉色の眼を細めるロデリックの発言に面食らった。


「……もう、兄様ったら」


 王太子相手にまで自慢話を披露したらしい兄に呆れて、ジュディスは溜め息を溢した。家族は皆ジュディスに甘い傾向にあるが、ディックの妹贔屓は本人から見ても相当のものだ。もしロデリックのようにジュディスの趣味を許容する人に、このように実力を誇張して広められていてはとても敵わない。 


「ここ最近触っていませんので、お耳汚しになりますけれど……」

「こちらからお願いしているんだから、構わないよ」


 王太子に聴かせるなど恐れ多くて食い下がってみるが、ロデリックは引かなかった。これ以上拒絶してはかえって相手に失礼になることが分かっているので、ジュディスはしぶしぶ承諾した。


「どんな曲が得意なんだい?」

「よく歌うのは、〈果てなきの空の向こうに〉という曲で――」

「ああ、モリィ・ベロウの軽歌劇(オペレッタ)の」


 なるほど、だからか、とロデリックは頷いた。モリィ・ベロウは異国の歌劇作家で、その作品にはマディートをはじめとした、アメラスに馴染みのない楽器が多数使われている。彼はそれを知っているのだ。

 ――グレアムは知らなかった。

 さすが、王族の教養は豊かだというべきか。曲名(タイトル)楽器(マディート)でベロウの名を言い当てられるとは思わなかった。


「ベロウはこの国ではマイナーだけど、観たことが?」

「ええ。小さな頃に、両親に連れて行ってもらいまして……」


 まだ寝込みがちの頃だった。楽しみがなく不貞腐れていた九歳のジュディスのために、両親がチケットを用意してくれたのだ。そして軽歌劇を見たジュディスは、楽器を持って歌う女優に憧れ、曲に惚れ込んで――


「マディートを、弾くきっかけに」


 過去に思いを馳せながら、たどたどしく言葉を続ける。

 けれど、この曲をよく歌うのは、ジュディスが楽器を弾く原点であるからというわけではない。グレアムが好きだったから。由来は知らなくても、彼は純粋にジュディスの歌に耳を傾け、褒めてくれた。

 ――もう、二度とそんなことはない。

 それが悲しくなると同時に、ジュディスの頭の中でまたあの疑問が過ぎる。何故、グレアムがいた過去を自分はこれほど惜しむのか、と。


「……ジュディス嬢?」


 すっかり気持ちが沈んでしまったジュディスに訝しんでロデリックが声を掛ける。思考の海に沈みかけていたジュディスは、慌てて笑みを取り繕った。


「ご所望であるというなら、次回お持ちいたします。両親の許可を貰ってからになりますが」


 先程了承した事実を忘れて演奏の約束を口にするジュディスの様子が明らかにおかしいことに気付きつつ、ロデリックはそのことに触れず頷き返した。


「楽しみにしているよ」

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[一言] これは王太子ルートか?( ˘ω˘ )
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