一方その頃。 トンルゥ 走る女
お孫さまの知らないところで、発表されてました。
初の、揚羽屋関連施設全部が一斉に休業した日にもなりました。
気配りと豊富な知識、嫌味のない笑顔。翠蘭は、老舗仙祥閣で人気が高かった。味だけではない、接客でも最高のもてなしを受けられると仙祥閣を贔屓にしていた美食家は多かった。翠蘭は経営者一族の娘でもあった。愛する夫は副料理長として日々厨房を回していた。料理長である叔父と実父との関係がこじれたのはいつからだったか。実父は叔父の才能を認めていたし、叔父も兄である実父を慕っていた。目立ったきっかけはなかったように思う。徐々に徐々に、気まずくなることが多くなっていった。
ある時、気付けば取り返しのつかないほど溝は開いていた。恐らく二人は互いにどうすべきかわからず、些細な行き違いや過ぎた予想が積み重なってこうなったのだろうと思う。叔父は姪である自分に厳しくも正しい上司だったし、夫も尊敬する料理人だった。
ただ実父だけが、一族から腫れ物を触るような態度で、次第に疎まれるようにもなった。
このままではいけないと夫と話していた時に起きた、神罰騒動。
絶望や落胆なんて言葉では足りない、もどかしさや腹立たしさや諦め。散々兄である実父を苦しめ、その末がこれか。情けなくて、情けなくて。
一筋の光明は夫の妹と交際している、競合店満天楼の娘でもある可馨だった。
引き合わせてくれた雲の上の方。揚羽屋の若旦那さま。揚羽の飛ばぬ国はないといわれるのは誇張でも宣伝文句でもなく、まさしく事実だ。逆に揚羽に見限られた者に先はないともいわれる。今回のことでトンルゥから、いやシャンという国から揚羽屋とその傘下が撤退することになれば。
滅多なことではそうならないだろうがその未来が簡単に思い描けるくらいには、揚羽屋重郎は孫を溺愛している。孫に害を為した国、瞬きすらもいらない、眉間に皺を寄せるだけで万事が片付いてしまう。それが揚羽屋の主人、重郎だ。
どう落ち着かせてくださったのかはわからないが、若旦那さまは、今回関係する業者すべてが倒れないよう支援してくださって、挙げ句、堕ちた仙祥閣を買い上げ企みを知らなかった従業員に罪はないと全員をお救いになった。
その、若旦那さまが。
走る、走る、とにかく走った。途中ぶつかりかけて謝るも、相手も急いで走っていたので事情はわかっている。互いに軽く会釈して詫びもそこそこ、走る。
今日は若旦那さまのおかげで立て直せることになった店と契約してくれる花屋に行っていた。店のあちこちに飾る花だ、毎日仕入れる。これまでの業者はあの神罰騒動で契約を切られた。毎日の花、新たな契約先を探していた。騒動以降、何度、頭を下げたかわからない。街に露店を出す小さな花屋にすら断られた時、若くともしっかりと自前の土地で花を出荷している店が声を掛けてくれた。
何故、まず疑問だった。
騙されるのではと思ったが声を掛けてくれた新祥花苑は、その親がまだ現役で、暖簾分けのような形で出来た店だ。そこの若い主は言った。
子が飛び出し妻は庇った。その二人を、到底無理な間合いであの方は飛び越えてくださった。あの時二人は死んでいても不思議はないし、殺されていてもこちらの不手際なのでどうにもならなかった。あの方は命の恩人だ、妻と子を亡くしてまだ生きていられるほど、自分も強くない。だから三人の恩人だ。そんな方がお持ちになる店、他の同業者から白い目で見られようが手を貸すのが当然だ。
若旦那さまはここでも助けてくださった。
食材の手配をトンルゥでも確かな名店と評判の央泰商行が受けてくれた、これも若旦那さまが関わるならとの立候補だ。
周囲の目もある、仙祥閣であった建物は潰して新たに建てることになるがそれはすべてヤマトから来る揚羽屋の手配だ。
仙祥閣はその名と歴史に区切りを付け、揚羽の煌めきの下、生まれ変わる。
「たいへん、たいへんなの!」
やっとの思いで駆け込んだ、元仙祥閣。潰す予定ではあるが先に潰しているのは前料理長の自宅だった方。料理屋としての建物はまだ残っていて、そこでは新しい店の打ち合わせと料理の試作が主に行われていた。
「お前、央泰商行の旦那さんがいらしてるのに」
夫は央泰商行の主人、泰然と打ち合わせ中だった。慌てて頭をさげつつも、それどころではないと夫の叱責に反論する。
「いったいどうしたってんだ、お前、今日は花屋に行くって言ってたろ」
「あそこへ行くのに、教会の前を通るでしょう、そこで、さっき、ついさっきね、発表があって」
「何のだ」
「中央さまが、お辞めになるって」
空気が固まった。凍り付くなんて生易しいものではない、時間が止まったような感覚だった。
「……は、お、お前、そりゃ、なにかの聞き間違いじゃ……」
理解出来ない、夫の言葉も頷けるが。
「聞き間違いなんかじゃなくて、たいへんなのはここからなの!」
「いや、中央の広域さまがお辞めになる以上にたいへんなことなんて」
ないだろう、と夫が言葉を続ける前に泰然も口を開く。
「お辞めになるというのは、還俗なさるということでしょうか」
その問いに首を振る、まさにたいへんなのはそこだ。
「還俗ではなく、特別神司さまのまま、野に下りられると」
「限定………………また、どうして」
広域さまが動かれること自体がとても稀でここ数十年、もしかしたら三桁の年数なかったかもしれないとんでもないことだ。更にそれが聖職者の力を有したままの限定。大陸中、いや世界中がひっくり返るほど驚いた筈。
「その、限定の対象が、揚羽屋の若旦那さまで」
再び空気が固まった。
「お前、今………………なんて言った」
「中央さまは、揚羽屋の若旦那さまに添いたいとのご意志なんだよ! それでね、この、新しい店の名前」
若旦那さまが候補として仮にと付けてくださった店名。
「紫星」
「それ、由来、中央さまなんじゃ」
ヤマトから来た揚羽屋のひとが言っていた。馬車ではなく単身、馬で来た男には可馨どころか、その上司である信世までが頭をさげていた。
いやはや、希われるまま頷いたと仰ってましたが若旦那の方からもお相手さまにお心を傾け始めたご様子。安堵致しましたよ。
「………………」
「ちょっと! ひとり勝手に気を失わないで!」
座ったまま気絶していた夫の背中をバシンと音をさせて叩いた。我を取り戻した夫は小さく謝るが、この気の弱さというか、若い頃からちっとも治らない。そんなところも好ましくて一緒になったのだが。
「と……とりあえず……シンちゃんのとこに行ってみるか」
「そうね、うん、シンちゃんならもっと事情を知っているかも」
夫と自分と泰然、三人でトンルゥの揚羽屋へ向かった。
「ま、当然か………………」
揚羽屋は閉めていた。事情を知ろうとしてか、大勢が詰め掛け店の前にすら辿り着けない。
どうしよう、可馨の実家である満天楼へ行ってみるか。いや、料理勝負の準備で忙しく神罰騒動や予約客の振り分けでも世話になっているのであまり迷惑を掛けてしまうのは。
そんなことを考えていると路地から小僧がこっそり出てきて袖を引いた。頷き、夫と泰然を連れて小僧の案内に従う。
路地を巡って着いたのは揚羽屋の裏口だ。
「ねえさん」
可馨が居た。
茶を出されてやっと、自分の喉がカラカラだったことに気付いた。走ったから、驚いたから、色々な意味でカラカラだった。
「シンちゃん、これ言うの二度目だけどさ、心臓潰れちまうよ」
「ごめんね、にいさん。私も発表までは明かせない誓約があったから」
「いや、そりゃあ……誓約までするのもわかるけど、………………あぁ、だから」
なにに合点がいったのか、夫は深く息を吐きながら頷いた。
「だから、神罰か」
「あ………………」
そうだ。揚羽屋の若旦那さまに針を盛ろうとした、ことがことだけにたいへんな騒ぎにはなっていたが何故その行いに通常はあり得ない神罰が下ったのか。説明はなかった。騒動が起きた当初少しくらい疑問を抱いていたように思うがすぐに吹き飛んだ、罪、詫び、失った誇りと信用、自分たちは親族だからまだしも雇っていた従業員たちの今の生活と将来すらも潰すことになって。
可馨は大きく、頷いた。
「若旦那への狼藉は、中央さまの伴侶への狼藉と同義だから」
「……なあシンちゃん。新しく任せてもらう店の名前、本当にいいんだろうか?」
畏れ多いにもほどがある、だが可馨は少し考えてから首を振った。
「寧ろ変更する方が不敬になると思う」
「しかし……」
「私もさっき信世さまから聞いて知ったばかりなんだけれど、若旦那と中央さま、出会われてまだ二カ月足らずなんですって」
「は?」
二カ月足らず、どういうことかまったく理解が出来なかった。広域の地位にある方が動かれるのに月単位だなんて、あり得ない。
「中央さまがどんなに急いたか、それだけでもわかるでしょう?」
「そこまでの無理を押し通してでも、」
可馨の頷きは重く、揃って溜め息を吐く。
「少しでも早く若旦那と、そう願われて、限定も還俗もわからない若旦那に、ただ望みをお伝えになって頷かせた。そう聞いてる」
「え? ご聡明に見えたが、限定も還俗もわからないって……」
夫の疑問は自分も同じだった。若旦那さまは逐一、手間賃だの場所代だの細かく気にして従業員の収入になるようしてくださった。あのおかげで神罰騒動で貸家を追い出されそうになった従業員も支払い能力に問題はないとされて家無しにならず済んだ。
「外とは隔てられた隠れ里にお暮らしだったから。詳しくはわからないけれど里をお出になる時、大旦那さま宛の文が残されていたからそれを届けに行って、そこで初めてご自分のことをお知りになったって」
「あぁ、うちにお越しくださった時に少しだけ仰ってました。お暮らしの里は今はもうないのだと」
泰然の言葉に可馨が続く。
「宇辰さんが言うには、里を閉じられたのは若旦那じゃないかって。なにがあったのかはわからない。魔物の襲撃、山崩れ、大水、ヴェッテがやらかしたあとだからどこでなにが起きても不思議はないし。その時からお酒を飲んでも酔えなくなったそうだから、すごくたいへんな目に遭われたんだと思う」
その宇辰はというと胃痛が悪化して寝込んでいるそうだ。
若旦那さまからいただいた薬葉で大事には至っていないが、先日、若旦那さまがご出発したあと山の天候が乱れハラハラしていた矢先。
「山小屋のお部屋は特一で取っていたけれど、引き返してきた登山者とかが多くて若旦那自ら部屋を明け渡して、外で天幕を張って夜を越えられたらしくて」
山小屋では確かに天候悪化で予定外の宿泊客が居た場合相部屋などで対応するが特一はその範疇にない。空いていれば解放されるが、利用者が居る場合そこへ別の客を入れることはまずない。
「自分一人が外で過ごせばどれだけの人数が助かるか、ってお考えで。きっちり、宇辰さんの不手際じゃないって連絡までしてくれてるからもう……」
「なんと、まあ………………」
「と、建前上は」
悲痛に歪めた表情から一転、けろっとした顔を見せる可馨。
「胃痛で臥せってる、自宅療養中ってことになってる」
「あー、病人に詰め寄るなんて非道だって言えるわけか」
「そ。私は身軽だけど宇辰さんとこはご家族も居るしね」
昨日のうちから食料をしっかり買い込み、籠城の構えだそうだ。
「しかし、シンちゃん。どうしてまた限定なんだい? 還俗の方がお楽だろうに」
夫の質問に可馨は少し迷いつつ、これは本当に推測の域を出ないんだけれど、と口を開く。
「若旦那がね、大旦那さまと初めてお会いになったその日に、後継争いになるから自分は子を持たないと宣言なさったんですって」
そういえば、揚羽屋は次代を今の大番頭に継がせると明言している。あんなにもご立派な若旦那さまがいらっしゃるのに。
「その場には中央さまもいらっしゃった。だから、そのお覚悟を中央さまも汲んで限定をお選びになったのだろう、って。実際のところはわからないけれどね」
揚羽屋重郎はそれなりの年齢だ、後継者については長く検討されていた。本店の大番頭に決まったと可馨から聞いたのはいつだったか。少なくともここ二カ月ではない、もっと前だ。
「あぁ、店にお越しくださった時に宇辰さんから伺いました。自分は商いには到底向かないからと大番頭さまを説き伏せたとか。大番頭さまが折れ、代替わりしても若旦那さまにはそのまま、若旦那さまとお呼びする位置に居ていただくよう約束を取り付けたと」
ただあの方だけでももう十分に素晴らしくて店の一員のままで居てくださるのは有難いことだったろう。だが事情が変わった。若旦那さまの傍らには中央さまが。揚羽屋は、とんでもない方の後ろ盾を得たも同然だ。
「………………………………えらいことになったな……」
夫が呟き。
「えぇ、えらいことになりました……」
泰然が続き。
「次に若旦那がトンルゥへいらっしゃる時には確実に中央さまがご一緒だからね。にいさん、新しいお店、しっかりね!」
可馨がとどめをさした。
「あ、あぁ、そりゃ勿論、勿論だ、若旦那さまのご恩に報いる為にも、でもよぉ、あーーーーーー! 本当にとんでもない方だったんだなーー!」
今日は仕事にならない、家の中は月餅で溢れかえることだろう。
例のゲーム、出遅れましたが色違いにゃんこ、なんとかお迎え出来てます。
ミルクセーキみたいな色で可愛い……