お孫さま、若旦那業
髪を結うことで光の粒子が出ないなら、なかったことにしてしまおうと思った。髪をおろしたまま動くことなんて着替えや入浴、就寝など極めてプラベートな場面しかない。神力も魔力も一般人には区別がつかず一部高位の聖職者に隠せない程度。使い方も制御も変わらず髪を乾かしたり出来るのなら。
この事実は忘れてしまっていた方が平和だ。色々と。
聖職者であるスターシアには教会への裏切り行為を強いているのかもしれないが本人は尊き方のご意志が最優先と涼しい顔で頷いてくれた。
重郎と信次も頷いた、彼らの理由はわかりやすい。この事実が広まれば揚羽屋の孫と呼べなくなってしまうからだ。
「桐人はずぅっとずぅっと、俺のかわいい孫だからな」
「はい、おじいさま」
でもそろそろ働き口が欲しい。
ルーペを使ってその先端を見る。
「悪くはないが少し粗いようだ。紙の繊維に引っ掛からないようもう少し研磨してみておくれ。その分インクの出の調節が難しいだろうが、書き味はなめらかな方がいい」
ボールペンの開発は進み、自分が知る線の太さに近付いてきた。
「はい」
「あと、今更だけどペン軸には細かな彫り込みでも入れて滑り止めに出来ないかな」
「!」
「強度との兼ね合いがあるだろうが数本の筋だけでも」
「すぐ伝えます!」
丁稚にしては年嵩だと思っていたあの少年だが、本来は職人見習いだったそうだ。他の見習いたちと折り合いがあわず揉めているところを手代が見かねて、双方一度環境を変えるべきと店に立たせた。ふてくされずに真面目に接客や雑用をこなしていた為、ボールペンの開発チームに見習いとして入れてみたのだと。
「すっかり、若旦那さま、ですね」
少年が去るとスターシアが小さく笑った。重郎も信次も解散したがスターシアはそのまま居た。平気な振りをしていたが腰が抜けていたそうで立てるまで少しだけ居させてくれと言われた。聖職者に真正面からの神力はきつかったらしい。
「あちらでそういう役もやりましたしね」
何気なく、本当に何気なく言っただけだったが。
「……今の若旦那さまは、お芝居なのですか?」
聖職者の琴線になにか振れてしまったようだ。
「………………」
スターシアが来ていることでさっきのような用事でもない限り誰も近付かない。
「聖職者の方というのは、人生相談なんかも聞いていただけるものでしょうか?」
庭を眺めながら、おもむろに口を開く。
「私は役者以外の道を知りません、芝居か、芝居の役に立つか。それだけでした。公演中に次の芝居の稽古を始めて公演がない時期は舞台以外の芝居をして」
名を売って、顔を売って、芸を磨いて、ずっとその繰り返し。少しでも学んで、少しでも高みへ。
「世間では週休二日なんて言葉もあったのに、気付いたら丸一日休んだ記憶がいつだったのか思い出せないくらいで。でも不満はなかったんですよ。私に出来るのは芝居だけでしたから。他にはなにもない。だから、今自由にしていいといわれても困ってしまって」
「ひたむきに、お仕事にすべてを捧げていらっしゃったのですね」
スターシアの言葉に小さく首を振る。
「それはよく言いすぎです。ただ私は考えたことがなかっただけだ、他の生き方を」
「………………」
沈黙はどのくらい続いたか。
数秒のような気もすれば、数分のような気もした。
「尊き方と同列に語るのは不敬ではありますが、桐人さまと私は、境遇だけは似ているのかもしれません」
悩みや迷いを孕んだ声音に、スターシアを見遣る。紫の瞳は僅かに伏せられて、自問しているよう見えた。
「私も、他の生き方を考えたことがありませんでした」
過去形だ。
「ですが、今、少し、私的な望みを抱くようになりまして」
「それは……」
聞いてしまってもいいものだろうか。
そんな心配を察してか、スターシアは大丈夫だと微笑んだ。
「別段、禁じられているわけではありませんよ。特別神司は己の意志で辞めることだって出来るんです」
それは知らなかった。
「ですが、花を生まれに持つ特別神司は私的な望みを抱くことがまずありません」
「え」
公益特化に作られた、博愛の化身。ひとではないから等しくあれる。
「だから、自分でも戸惑っているのです……」
どこか気まずげに、だがはにかむような表情。
自由を知らねば不自由を知らず。誰もが選択肢を与えられるわけではない。
「確かに、お互い似ていますね」
「桐人さま」
「恵まれている自覚はあったんです、目の前にそれしかなかったと言われればまあ、否定は出来ませんが、事実芝居は好きでしたし、生業に出来て、先祖代々続く道を自分も後世に伝える一助になれればと思ってました。突然全部なくすとは思ってもみなかっただけで」
事故や病気で自分が使い物にならなくなったり、天災で劇場や家族を失うことはあっても自身以外が残らないなんてどうして予想出来る。
「私はこちらでもまた恵まれています。有難いことにおじいさまがいらっしゃる、事情を知ってくれているスターシアさんも、慕ってくれる信次さんも」
アイドル事務所の彼はどうだろう。自分のような縁がなければ、誘拐犯の国から逃げのびても苦労しているのでは。
文庫で見た中に、隠されてはいたが情報として残されていた。クロードは正しく仕事をしている。
界を渡った者の何割かは、自ら命を絶っている。それはなにも戻れない絶望からだけではない。己を取り巻くすべてが変わってしまったことで戸惑い自分を見失う、そうして、生きることを諦めるのだ。
薔薇という花はどんな名前でも馨しい。忘れてはいけない、自分は自分。
「私の存在は、桐人さまのお役に立てておりますか?」
心細げに言われて、頷きたくなるがここは否定しておかねば。
「とても助かっています、でも役に立とうが立つまいがいいんです、そんなことでご自身を計らないでください。そうしたご身分だと理解はしておりますが、有益か無益かで判断しないで」
紫色の零れそうなほど見開かれていた。現人神だと認めた者に役に立たなくてもいいなんて言われるのは聖職者としてあまりよろしくないのだろうが否定せざるを得ない。
「私もスターシアさんも少し、こだわりすぎているのかもしれませんね」
しきたり、使命、伝統、守らねばならないもの。
「あ……」
「すみません、失礼なことを言ってしまって。私よりもずっと崇高なご意志でそのお役目を果たされているでしょうに」
「い、いえ、」
「でも、似ていると言ってもらえて勝手に近しく感じました。聞いてくださって、本当にありがとうございます。弱音を吐くというのも、すっきりするものですね。あちらではそうした相手が居なかったもので初めてで……」
スターシアはどう思ったのかわからない。
「いえっ………………、いえ」
だが、恐縮して額をいつもの白い布に擦り付けんばかりに首を振っていた。
心情の吐露というかたちでスターシアに盛大に甘えてしまった翌日。
ボールペンは見事完成し、まず重郎に渡された。ネジ式のキャップがあり先端の保護と同時に万一のインク漏れに備えている。ノック式に出来ればいいのだろうがあれはバネが入っていることくらいしかわからない。
「うん、握りもいい。止まることなく書き進められる」
「若旦那さまの彫り込みを入れよとのご指示には職人どもも目から鱗で」
そんなに驚かれることだとは思わなかったが筆や羽ペンが主流で鉛筆が高級品、長く持った時の手の疲れにはまだ考え至らないようだ。
「ペン軸に曲線を取り入れればまた手に馴染みやすく、長時間の使用に耐えます。軽さもいります、素材を選ぶことになるでしょうが色々と試してください」
先に言えと怒られるかと思ったがそれはなかった。
ボールペンはこの一本がスタートになりこれからどんどん増えるだろう。
「桐人も落ち着いた頃だと思う、ボールペンの完成祝いも合わせて今夜は宴にするつもりだが出掛ける予定はあるかい?」
職人たちを労うのだろう。それはいいと思うが。
「今夜出掛ける予定はありませんが、近々こちらを出ようとは思っております」
まさか、重郎が悲鳴をあげるとは思わなかった。
やっとここまできました……