お孫さま、香る
先にネタバレします。
麺、辿り着かずです。
「蛇の睨みとは、簡単に申し上げますと威圧のようなものでございます」
どんな獣の特性を引いているかは様々、信世は蛇が持つ鋭い眼光を引いていた、それが種の力だそうだ。同じ蛇でも同じ力を持っているとは限らない、と。
「侮る心、偽る心あらば忽ち怖じ気に支配されます。ある程度の強者ならば弾いて返すことも出来ましょうが、まったくの無反応で居ることはございませぬ」
どうやら自分は信世から威圧を受けていたようだ。
「蛇の睨み……世の中には色々な技術があるんだねぇ」
出された茶を飲む。透き通った淡さ、白茶だ。渋みはあまり感じず甘さのようなものを感じる。香りが強く口に含んだ瞬間と喉に落としてから舌の奥に残る余韻がまた違う。
「……若旦那さまは、これを技術と仰いますか」
「すみません、失礼にあたりますか。ご先祖から受け継いだ大事な力ですもんね」
「いえ、寧ろそう仰っていただけるとは」
何故だろう。信世の表情には戸惑い、クァシンには驚きがある。もしかしてまた無知を露呈してしまったのだろうか。
「えぇと、ともあれ、信世さんは信世さん、種族で誰かを見るような器用な真似は私には出来ないと思ってくださいな。あとこのお茶、美味しいね」
クァシン本人は料理宿である家を出て揚羽屋の社宅のようなもので暮らしているそうだ。
「私の父で二代目となります」
料理上手な祖父、気さくで活発な性格の祖母が始めたとか。小さな料理宿はすぐ評判となり大きくなって、父の代で今の規模になったと。
「弟が三代目となる予定で、現在は修業に出ております」
交渉がどうなるかはクァシンの父親の判断に任せるとしてひとまず昼食をそこでいただくことになった。厩もあるとのことなので揉めることがなければ泊まる予定でもある。
「美食家でいらっしゃる若旦那さまのお口に、うちの料理が合えばよいのですが」
「私は別に、美食家ってわけじゃありませんよ? プレリポトでは朝市の屋台にも行きましたし自分で作るのはただの趣味ですし」
青藍を連れて歩いていると、ふと強い香りを感じた。
「あ、お香だ」
香を売っていた。あちらでは僅かな時間でもリラクゼーション効果を高めようと楽屋で焚いたりもした。外から覗くと手前の方には匂い袋のようなもの、その奥に形になった香、更に奥には香木が見えたので希望で香りを組めるのかもしれない。
「この辺りは商店が多く軒を連ねております。旅に便利なものもございますよ」
確かに、今居る通りは市場ではないがどうやら商業地区のようだ。
「魔物避けの香もございます」
「そんなお香があるんだ」
あちらでも虫除けの香はあった。夏場によく見る、あの渦を巻いたやつ。あれは確か神経毒だったか。
「旅の必需品でございますよ?」
街道を行く場合でも、本来は魔物避けになにかしら持つらしい。魔物が忌避する香や教会が出す護符。護身用の武器は勿論だがそれは最終手段、そもそも魔物との遭遇を回避する為のものを持つのが大前提らしい。
「青藍が居るから特に不便さを感じなくてね」
「確かに、グランドエクウスに不用意に近付く魔物は本当の雑魚か本当の脅威かでございますね」
必需品なのにと眉を寄せたクァシンは、すぐに納得の表情で頷いた。
考えてみればこうしたものがあるのなら重郎や信次が持たせようとする筈。当初乗合馬車を利用するつもりがスターシアの馬車に同乗するよう仕組まれた。そしてプレリアトでは馬を買った。毎回驚かれることからも、グランドエクウスは色々な意味で本当にすごい馬なのだろうと思う。あの信次がそれを見逃すとも思えない。プレリアトの牧場に居るグランドエクウス、番頭不在で実務は弟弟子の信吉、乗合馬車ではなく護衛もびっちりの広域特別神司の馬車にてプレリアトまでは行ける。ここまでくれば青藍を買ったことすら、信次の計算の内だったのではなかろうかと勘繰ってしまう。でなければ過保護なあの二人が魔物避けを持たせなかった理由がわからない。徒歩旅も視野に入れていたことは重郎や信次には話していないがそのくらいは予想されている筈。
まあ、青藍は賢いし可愛いしよいのだけれど、物知らずの若造の行動はどこまで読まれているのやら。
「お立ち寄りになりますか?」
「んー……」
青藍が居るから魔物避けは不要だが寛ぐ時にはあってもいいかと思うが。
「今はクァシンさんのお家に向かいましょうか。青藍を香りの強いところに繋いでおくのは哀想だ」
青藍が居る。香を売っている店の前でも平然としているが、本当に影響がないか調べてからでないと手を出すわけにはいかない。あとで信吉に訊いてみよう。
ではまたのちほど、とクァシンは店の中へ小さく会釈し、歩を進める。そうか、クァシンはトンルゥの店の番頭。それが直々に案内しているのだから店を訪れるにしてもあちらも構えが必要だ。市場や露店のような形態ならもっと気軽に買い物も出来るが。
「若旦那さまがお香にご興味をお持ちとは存じませんでした」
「うん、こちらでは誰にも話していないもの。知らなくて当然ですよ」
恐らく報告書に書かれるのだろう。
「フラッハの方では固形の香ではなく、油を焚くとも聞きます」
「油を焚く……あぁ、精油か」
エッセンシャルオイルだ。こちらでの医療がどういうものか知らないが、香りは少し懐に余裕のある者には身近なケアでもあるのかも。
「肌に塗り込むものもございますよ」
「香油だね」
直接塗るものは保湿剤にもなる。そういえばこちらに来てから肌のケアとか一切していないが特に乾燥したり突っ張ったりギトギトしたりは感じない。今夜泊まるところで一度しっかり鏡を見てみよう。
「いずれも先の店で扱っております」
クァシンはわかりやすい。報告書へ記載する情報を拾おうとしているのだろうが少々あからさまだ。
「ちょっと立ち止まっても平気な場所ってあるかな? 信吉さんに、青藍のことで訊いておきたいから」
「あぁ、香についてでございますね、少し先の辻でしたら平気かと」
クァシンの言った辻には改装中で閉まっている店舗があった。確かにこの前なら立ち止まっても平気だろう。クァシンはさっきの内容をメモするのか帳面を開いていた。
札で、声に出さずに信吉を呼び出す。
『青藍なら平気でしょう。鼻先で焚かれたらそりゃ煙たがるとは思いますが』
よかった。なら多少は持っていてもよさそうだ。
だが続く信吉の言葉に戸惑った。
『ですが若旦那、普段からなにかお焚きになっているのだとばかり』
『え?』
『若旦那のお傍におりますとふんわり、なんとも心地よい香りが漂って』
『え』
こちらでは香水は勿論、整髪料も使っていなければ化粧品も使っていない。
『てっきりお召しものに含ませておいでかと』
なにか匂うとすれば、衣類、若しくは。
『あー……それは、央京に居た頃にはされていたかもしれないけれど、今は』
『へ? じゃあ……』
『私自身が臭うってことだ……!』
これは少々、いやかなり衝撃的な事実だ。
『いえ、臭うって、そういうんじゃなくてですね、』
加齢臭にはまだ早いと思っていたが、二十五を過ぎれば同じか。
『うわー、旅の途中でも気を付けてお風呂に入っているのに』
あちらでは香害なんて言葉もあったくらいだ、センシティブだが深刻な問題でもある。大抵の場合は香水などの過剰な使用が問題になるが、中には靴を脱いだ足や口臭といった本人の身から発生するものもあった。
『ちょっと、若旦那、聞いてくださいまし、若旦那』
『夜と朝じゃ足りないのかな』
あがれる舞台はもうないが、それでも最低限の身繕いは矜恃としても保ちたい。
『え、野営中、二度も風呂に入ってるんですかい?』
『都度、髪も濯いでいるよ』
朝はシャワーで済ませることが多いが、長くなった髪は砂や塵も付きやすいかと必ず濯ぐようにしている。
『……なんか、こんなことで慌ててらっしゃる若旦那を知るとホッとします』
『えぇ? 信吉さん、それはひどいよ』
『すいやせん』
謝罪の言葉もだが信吉からは本当に安堵というか、親近感めいたものが伝わってくる。こういうところが念話の怖いところでもあるのだろう。
『教えておくれよ、こちらでは私くらいの歳の男はどういった対策をするのかな』
『まず、若旦那は世間一般の男連中よりも、ずぅっと清潔でいらっしゃいますよ。そこらへんの下手な王侯貴族よりも』
下手な王侯貴族、なかなか聞かない言葉の組み合わせだ。
『でも近くに居るひとに体臭がわかるようじゃ』
『若旦那、改めてご自身のことを思い出してくださいまし』
『私のこと……? なんだろう……』
『神がお認めになった御身、素晴らしい香りがしても不思議はないんじゃあございませんか?』
『あー………………そうだね、私は未知の生物みたいなものだものねぇ』
正直なところ、未だに自分の身体がわからない。排泄することがないのはすぐに気付いたがそのあとわかったのは散髪出来ないことくらい。汗は掻いても頭髪同様髭や産毛も伸びないからこちらに来て一度も髭をあたっていない。そして加齢臭もあり得ない。老化とは無縁になってしまったのだから。
『いえ、未知の生物って、』
『ともかく、これからも清潔な身を心掛けるよ。今のところそれくらいしかやれることがないだろうし』
『今のままで十分すぎるほどでございますからね。風呂に入りすぎてふやけちまうなんてことにはならないでくださいましよ』
さすがにクァシンに訊くわけにもいかないので、ユーチェンが戻ってきたら一度頼んでみよう。
『そうそう、若旦那。先日申し上げるのをうっかりしておりまして』
信吉に渡した薬葉の薬効が従来の葉とは違っていたそうだ。粗悪なものを渡してしまったかと思ったら逆で、薬効があがっていたと。
『ですんで、まだまだお持ちかとは思いますが』
『わかったよ。通常にないものが市場に流れるのはよくないからね。使いどころは気を付けます』
『これまた、ご理解がお早くて助かります』
念話を終えてもまだクァシンは帳面と向かい合っていた。済んだと声を掛ければ慌てて帳面を閉じて、誤魔化すように笑った。
「まだ時間が必要でしたら……」
「い、いえっ! 参りましょう!」
歩きながらトンルゥの店について訊いてみた。自分が教えてもらえるどこそこの店と呼ばれる揚羽屋は、あちらでいうところの支社だ。多くはそれぞれ店の特色はあれどプレリアト同様取扱店舗へ案内するのがメイン業務。例外がプレリポトだ。プレリアトが国内をカバーしている分、プレリポトは海運業をメインと出来る。
「トンルゥではシャンの伝統食材と工芸品を強みとしております」
香は工芸品に入るそうだ。旅の必需品としてあちこちに輸出もしているとか。
「さきほどの店もうちの系列でございます、扱っている品の一覧など必要でしたらお持ち致しますが」
「いや、さすがにああいうのは実際試さないとわからないから」
話している間に到着した。
「こちらが私の両親が営みます料理宿、満天楼にございます」
摩天楼と間違えそうだ。建物は文字通り、楼閣と呼ばれて違和感のないものだ。
「祖父が満天の星空の下で祖母に想いを打ち明けて結ばれたことから名付けられ、その話を知ってよく求婚の場に使われるんですよ」
「あー、美味しいお料理を食べてその場で、っていう」
「はい」
クァシンは嬉しそうに頷いた。祖父母と両親が盛り立てたこの宿が好きなのだと伝わってくる。
先に厩へ回って青藍を繋ぐ。クァシンは厩の外で待っていた。引き綱すら触らせないとわかっているからだ。店の前でクァシンが綱に手を伸ばしただけで、青藍は耳を真後ろにして怒りを訴えた。信吉には許しても、他はだめなようだ。
鞍は置くところがあったが馬鎧をどうしたものかと考えて、ひとまず収納した。青藍の馬鎧には自浄だけ付与してある。鎧だからあんまりピカピカの新品より多少馴染んだ方がいいだろう、その頃に改めて不壊を付け足すつもりだ。
「待たせたね」
「いえ。しかし本当にグランドエクウスは難しい馬でございますね」
「そう聞くんだけどねぇ、あの子は最初から私によく懐いてくれたもんだから」
他のグランドエクウスはセルジュのヴィナスくらいしか知らない。あの子も撫でさせてくれたが、さすがに綱はどうだろう。そういえばあの時信吉は二頭を同時に引けたことに感激していたから、やっぱり主人以外に綱を触らせるのはめずらしいことなのだろう。
「どうぞ」
表に戻り、クァシンが開いたドアから一歩。笠を外した、その瞬間。
「おっ、お嬢が男前を連れてきたー!」
叫ばれた。
「うわああああ! い、一大事だっ!」
揃いの服装なので、宿のスタッフだろうか。
「あんたたちぃ!」
クァシンは目を吊り上げ、逃げるスタッフと思しき男たちを追い掛けていった。大騒ぎしているのは最初の二名だけでなく、他にも右往左往と。
他に客が居なさそうなことも意外だが、客商売でありつつこの状態はいったい。戸惑っていると刃物が近付く気配を感じた。だが殺意も害意もない。ぴたりと目の前で止まった菜切り包丁を大きくしたような、中華包丁の刃の部分。
「まずは第一段階、合格だ。俺の包丁にびびらなかった。だがこの程度で、うちのクァシンはやらねぇぞ! 次は、」
握っているのは中年の男。言葉は途中で止まりその場でずるずると崩れていく。男の向こうに見えたのは片足を振り上げた状態で体勢を保っていたクァシンだ。
「今日は大事なお客さまをご案内するって言ってなかったかねぇ?」
歳相応には、気になっちゃったお孫さまです。