お孫さま、ステゴロ
殻剥きも思わぬ形で終わってしまったので、もう湯を使って休もうかと天幕へと入って、違和感を覚える。
「こんなものあったかな……」
なにもなかった筈の場所に、漆塗りの箱。かなり大きい、大人が一人優に入れるサイズだ。蓋に手を掛けるが開かない。こういう箱は心当たりがある。
何も書かれていないが箱の蓋、中央にそっと手を置く。
やはり。この箱は収納箱だ。内容物もわかった。
「今回賜ったもの」
どう指定すればいいかと考えたが、物を限定せずに表すならこれでいいだろう。蓋を開ける。
「うわぁ……」
入っていたのは思っていたサイズと形のファイヤーピット、トライポッド。勿論ダッチオーブン、蓋付きの深鍋とスキレットも。火箸、焼き網が数枚、追加の串、炭壺、火かき棒まで出てきた。要は焚き火に関する諸々のセットだ。
ファイヤーピットは鍋底のようなものに足が付いたタイプ。シンプルなだけに、誰に見られても詮索されにくい。ここで焼き網併設だったりバーベキューコンロに使える代物だったり、装飾や網状の蓋がついていればまずかっただろうが。深鍋はサイズ違いで三つあった。スキレットも同様。
焚き火セットで終わりではなかった。蓋と羽釜、かまど、セット出来るサイズの蒸籠も。炊飯用だろう深めの土鍋、普通の土鍋、等々。
元々天幕には調理器具が備わっていた、だが神の想定以上に自炊しそうだと追加されたようだ。
「信吉さんに頼まなくてよかった……」
買い物メモから削除しておかねば。
「……これもか」
増えていたのは収納箱だけではなかった。
湯を使おうと支度して、天幕のウェットエリアに一歩足を踏み入れ無視出来ない大きさの追加物に立ち尽くした。
増えていたのは硝子張りのシャワーブース。バスタブの注ぎ口にも、くるくるとシャワーのホースが巻かれヘッドが置かれていた。
天幕にもなかったとの言葉を神は聞いていたのだろうか、はたまたシャワーなる存在を知って追加したか。シャワーブースのことは言っていないから自分の記憶を読まれたことは確かだ。
ともあれ、今後は不用意に天幕にもないなどとは言わないようにしよう。
「はー……」
しかし、やっぱり、頭上から注がれる飛沫というのは気持ちがよくて。シャワーブースにはヘッドを固定するバーもあったがレインシャワーも備えていた。
髪を濯いで湯に浸かって。髪を乾かしたあとは解いたまま瞑想して床に就いた。
翌朝。自然と目が覚める。攻撃性をたっぷり発した気配が近付いていた。夜明け直後といった頃合い。天幕を含めた野営の敷地には入れない、このまま寝ていても支障はないが青藍も落ち着かないだろう。寝間着のままだがさっと髪を結いあげ、襷を手に天幕を出る。
「あー、これはまた大きいな」
まだ距離があるのにはっきりとわかる巨躯。自分が知るものより四肢が長いが、熊っぽいものだ。駆ける速度が速い、野営の敷地から出て近付くのを待った。まだ数回しか対峙していないがすべて刀で仕留めている、今回はどのくらい戦えるかの確認をしてみよう。浴衣では裾がばたつく、袖は襷で処理してしまえるがそろそろ洋服の調達も考えるべきか。
そうこうしている間に熊っぽいものが目の前に来ていた。
頭上から振り下ろされる爪の一撃を避ける、姿勢が低くなったのならとまずは顎目掛けて拳を一発。熊が怯んだ、脳が揺れたか。地面を抉った爪、その先に破れた布が引っ掛かっている。既にどこかで誰かを襲ったようだ。
ならば、尚のこと遠慮は無用。
腕を取り天幕から離す意味で投げ飛ばす。思わぬ攻撃だったのか、虚を衝かれたような顔でこちらを見る。これまでどこで暮らしていたのかわからないが敵なんて居なかったのだろう。居たとしても常に勝ち続けたからこそ生き残ってきた、この大きさまで成長出来た、野生の世界では魔物も動物も同じ筈だ。
一瞬の停滞は十分な隙だ。低くなった熊の喉を臑で蹴る、気道が潰れ停滞は一瞬から数秒に。まさに十分。頭を両脇から掴んで、素速く、大きく捻った。躊躇えば苦しめる、軋み、砕ける感触。歪な向きに首を曲げ熊っぽいものは沈黙した。
やはり刀を使うよりも命を絶つことを生々しく感じた。
忘れてはいけない。
「……」
手を翳して片付けた。
シャワーがあってよかった。全身を濯いで、脱ぎ捨てた寝間着を再び纏う気にはならず、誰の目があるわけでもないので雫を落とすとそのまま寝床へ戻った。
最初に央京におりたから今ひとつピンと来ていなかったがこちらでは自分が思うより命が軽いというか生死がずっと身近だ。あちらでも絶えず死は身近にあった、だが、こうも肌で感じるものではなかった。
爪に引っ掛かっていた布に、改めて感じた。街の外、壁を越えた先での日常だ。誰かがついさっき襲われた証拠。血が付いていなかったから、荷を覆う布だと思いたい。だが同時に、自分と同じように街の外で野営をしている他者の存在をあまり考えていなかったことに気付く。そしてそれは、善人とは限らない。街の中ですら馬を寄越せ刀を寄越せと絡まれた。ああいう手合いに街の外で遭遇したら。生憎と負けてやれる身ではないがうまく追い払えるだろうか。自分が下手を打てば相手は神罰の対象となるかもしれない。これまで屠る対象は言葉が通じない魔物だった、今後は、相手がひとだった場合も考えておくべきか。
己の認識が甘かったの一言に尽きる。旅に出るということは場合によっては実行するしないに関わらず、この手で誰かを殺める覚悟も必要なのだ。それが足りねば被害に遭うだけ。重郎には保険のように神託のことを持ち出したが、本当に神罰が下れば自分の旅はそこで終わりだ。親しい者に知られるくらいはいい、だが不特定多数に知られてしまえば制限は特別神司の比ではないだろう。誰に禁じられずとも自然とそうなるのが見えている。無事で居られるのは有難いが、本当にはた迷惑な身だ。
「………………命、か」
定命の理を外れた身。未だその感覚はわからないでいる。誰もが変わらぬままに生きていると錯覚し、ふとした瞬間成長なり、老化なりに気付く。そんな程度だ。それを細かに繰り返し気付けば長く生きたものだと振り返る。その摂理から外れて過ごす、やはりまだわからない。わからないが、時を経て、周りを見て、ようやく気付けるのだろう。それまではなにも変わらない。己が老いるか周りが老いるか。ただそれだけの違いだ。とても大きな違いだが。
あちらでの死はごく身近にありつつもどこか遠い、まるで対岸のような、そんな認識だった。
訃報や事故、災害での被害はいち早く報じられる。年配の先輩方を見送ることもあった。それでも、自らの手でなにかの生き物を殺すことなんて滅多になかった。肉も魚もいただくが専門の業者や職人により商品となったものを購入するばかりで釣りや狩猟をする者でなければそれが一般的だった。こちらでも街の中だけで生活するなら似たような状態だろう、せいぜい鶏を絞める程度か。だがそれすら日本の都会では稀なことだった。離れて、改めて考えてみれば滑稽ではある。あちらでも昔は肉が食べたければ仕留めて解体せねばならなかった。
街に張り巡らされた壁、衛兵が立ち、通行を見張ると同時に魔物の侵入も防ぐ。アルフによれば界渡りの禁忌、つまりこちらへ掠われた時の影響で、魔物の分布が乱れている。半年前だとの話だが、自分がおりてまだ一月も経っていない。神託は半年前、その禁忌の当時だ。記憶もないし推測の域を出ないが自分はもしや半年間神域とやらに留め置かれたのだろうか。神託を下す都合で、出発を遅らせたとか。若しくはただ単に、神にとっては半年なんて誤差にもならないのかも。で、あれば神域は界の狭間といわれるが明確な線引きをすれば神域はこちらの世界か。
「あぁ、なるほど……」
こちらとあちら、神域はその間にある、つまり街に巡らされた壁だ。この場合、どちらが内でどちらが外かは関係ない。そして界を渡るには必ず神域を通ることになる。だから、界を渡った者の多くは元から持っていた技術が向上して備わった。何故神域をそのように配したのかはわからない、神にとっては神域ですらなく界の狭間を見張る為にただ敷地を拡げた程度かもしれない。
色々とつらつら考えているうちに眠ってしまった。
眠ったのは僅かな時間だったようだ。シャワーを浴びて、身支度を調える。朝は食べる気にならなかった。
「青藍」
昨夜出涸らしのアサリを殻諸共食べた青藍へ鯛の切り身を差し出してみる。
「アサリは食べたのに」
興味を惹けなかった。ヒラメも同様。諦めて、朝食代わりに汁だけ啜るかと鯛のあらで作った潮汁を椀に注ぐと、鼻を寄せてきた。だが汁は飲まない。
アサリも殻を食べていた。噛み応えというか歯応えが欲しいのだろうか。汁から鯛のあらだけを掬って差し出すとすぐに食べた。ヒラメのあらも焚き火で軽く炙りしっかり冷まして出してやると機嫌良くバリバリ食べた。一応口の中を確認したが大丈夫だった。
青藍はそのあと好きに草を食み、おやつの葉を囓り、水を飲んでいた。
「歯の生え替わりで痒いとか……? うーん……」
犬ならわかる、革靴を囓るだとかソファを囓るだとか。だが馬では聞いたことがない。馬も歯が痒くなることがあるのだろうか。そういえばどこだったか、神社の馬が木製の戸を囓って戸がなくなってしまったネットニュースを見た記憶がある。
「顎の力が強いっていうから柔らかいだけでは物足りないのかなぁ」
信吉からの図鑑を待とう。
プレリアトに向かっていると、道の脇で休憩する老夫婦を見掛けた。こちらへと手を振っている。攻撃性も害意も感じない。青藍に足を緩めさせゆっくり近付く。
「すまない、食べ物を持っていたら少し分けてもらえないだろうか」
夫の方がそう言いながら数歩近寄る。疲労を隠せない表情だ。妻は岩に腰掛け、顔色も悪い。連れている馬は一頭、覆いの破れた荷を携えたまま草を食んでいる。
「いかがなされた」
「昨夜、野営地で大きな熊に襲われたんだ。食料を放棄して、どうにかここまでは逃げのびたが」
熊、今朝未明のあれだろうか。
「プレリポトで買ったものがある」
打飼袋から出したポーズで、テイクアウトした三種をそれぞれ二人前ずつ渡してやる。
「! マジックバッグですか」
「まじ……? あぁ、収納箱というか、収納鞄というか」
夫妻は出した量に驚いたようだが意味が違った。夫は打飼袋に驚き、妻は純粋に量に驚き。
「こんなにたくさん、大事な食料ではなくて?」
心配そうにする妻へ首を振る。
「ここにまだあります、どうぞ」
「温かくて……あぁ、いい匂い……でも、またあの熊が来ないかしら」
どういう熊かを訊いてみた。
「灰色のまだら模様の巨大な熊だ。あの大きさ、恐らく魔物だろう」
「あー、もしかして」
熊の爪にあった布だけを取り出して渡す。食料を纏めていた荷の布で間違いないそうだ。
「それを爪の先に引っ掛けていた熊みたいなものでしたら大丈夫」
今朝仕留めたと話すと目を丸くして驚かれた。
「あれを仕留めたのなら素晴らしい腕前だ。さぞかし高ランクの……」
「いえ、冒険者ではありません。ただ路銀の足しになるので襲い掛かってきたもの限定で仕留めているまで」
冒険者ではなく魔物と戦うのはそんなに不思議なことなのだろうか。それとも、騎士でも衛兵でもなく戦う術を持つ者は皆冒険者になるのだろうか。
「近くに魔物の気配もない、ごゆるりと。私は先を行かせてもらいます」
「あぁ、どうかお待ちを。この食料の対価は如何ほどに……」
「お気になさらず。もし口に合ったらプレリポトに行った時には朝市で同じ料理を買ってくだされば店が続く、私が次に訪ねた時にまた買える」
「まあ、素敵な考え方をなさるのね」
「心得た、ポトへ赴いた際、必ずこれらの料理を出す店を探そう。ありがとう」
そうして、老夫婦に見送られ先へ進んだ。
爪に引っ掛かっていたのは荷を覆う布だった。
悪い習性なのですが、プロットばかりが進んでいます…楽しい… しかし、
プロットたてきったら満足しちゃうことが多々あるので、キリキリ書いていくよう気を付けます