死なぬ肉
梶沢は、3番あなぐらの上層4階を2日酔いのように足をもつれさせながら歩く。その後ろにはまだ若い研究員が、前が見えぬほどの大量のバットに入れられた試料を抱えて付き添う。
広いにもかかわらず、ゴミ一つなくに磨き上げられた廊下には、時折緊急事態を鎮めるために派遣された隊員――MPがいた。長く使われ続け、いぶし銀の輝きを見せる89式小銃を胸に抱き、特製の防弾プレートの入ったジャケットに身を包んでいる。そしてその肉体は、鎧かと見まごうほどに鍛え上げられ、強面の顔と共に立っていた。
そんな屈強な自衛隊員は、逃げたと報告のあったバケモノの鎮圧に乗り出してきたのだ。短い言葉を交わすでもなく、巡回している。
その姿を見て見ぬふりをし、梶沢は一番奥の部屋に向かっていた。彼らが生きている限りは、まだ自分たちは大丈夫である。到着したのは、この施設の最高責任者の詰める部屋だった。
こうしている間にも廊下にある消火器や、梁の影から化け物が覗いていて、伸びてくるのではと思われたが、まだその時ではないようで自分たちは生きている。
胸を張って、姿勢を正し、扉を三度ノックする。
「入れ」と短く命令を受けて梶沢はドアノブを回して中に入る。
向かい合わせで座った曹連中の視線が痛いほど体に刺さる。目を泳がせるように壁に目をやると、飾り気のない鉄製のラックがあり、端から端まで詰められたファイルのあまりの重さに台が歪みそうであった。各曹の机の上には支給されているオートマチック式の黒い拳銃が置かれ、マガジンはおろか、初弾が薬室に装填されているのが梶沢には分かった。ハンマーが起きている。その状態で安全装置をかけるのは、正に敵襲にあってもすぐさま反応できるようにとの配慮である。
「状況は」
梶沢は生唾をゴクリと飲んで、昨晩から起きた現状をできるだけ鮮明に語る。ただ黙々と聞く曹の顔には険しい表情があって、顔に刻まれた皺が、まるですべてが人間大の彫刻のようだ。
手を上られたので、思わず言葉を止める。
「では、肉のために用意した人間を食わんというのか」
「はい」
「肉を一年間も取り上げたというのに」
「恐らく、何かしらの仲間意識というか」
「裏付けのない推測は何もいらん。今現状壁が破られているのだからな」
人間の体は実に貧弱である。あの壁は、中に入っている物を外に出さないためという意味合いよりも、外の人間を中の物に襲われないようにするための物だった。人間で例えるならば、プラスチックの壁が、飯を覆っている状態に近い。プラスチックは硬く、素手で開けるには怪我をしてしまうが、本気を出せばいつでも壊すことができる――。
「幸い出たのは送り狼と鬼だけです。先ほど肉を戻しましたから、地上に出ることはないでしょう」
「なるほど。お前はそう思っているのだな」
梶沢は、はてと頭をひねった。今までも肉を追いかけ、まるで守るような習性は見られたが、それは送り狼の産まれ持ったさがという物である。今回あの肉をご所望なのは鬼だ。一度狩りに失敗しても、再び取り逃がすという事は考えにくい。
「食わない訳がないではないですか。一度穴から出てきたとはいえ、そのまま戻したのです。明確な縄張り破りに加えて、空腹の所に詰め込まれたのですから、死にます」
怪し気な表情を密かに浮かべた陸曹は、自らの抱えたパッドを投げてよこした。その中では正に檻の中に入ろうとする青年の姿があった。
「俺は死なない方にかける」
それで、だ。陸曹は切り出して梶沢と部下の顔をまじまじと見て言った。
「彼には、ハートビートになってもらおうと思う。彼が死なない限りは我々も死なない。そういう取り決めをつけさせるのだ。本来であれば屈強な特殊部隊員が取り組むべき仕事であるが、正直そういう人間も食われている状況では、その適正を伸ばすしかない。そのためにあの者を一般人ながらこの施設で生活する許可を出そう。できれば、友好的な関係をもってまとめてくれることを祈っている」
「お言葉ですが、あれは自らの物にとことん執着されるのです。描いた絵をサンプルとして回収し、盗んだとみなされた者がどのようにされたかご存知でしょう!」
実際、この施設には本物の木が一切生えていない。それはあの鬼が、遺体を切り刻んでその内臓をクリスマスツリーのように飾ったからだった。