質問
「初めまして京子さん。俺は高広といいます」
「知ってる」
ゆっくりと開けられた彼女の目は、黒目の色素も薄く、淡い茶色に見える。その目に見られると、高広はどうにも目をそらしたくなってしまった。あまりにも真っ直ぐ見てくるのである。そこには遠慮も何もなく、じっくりと観察するような目であり、吸い込まれそうな美しい目だった。
それに可愛い年下の女の子と話した経験なんてない。さっきとは一変して緊張から喉はからからに乾いた。
「あ、あの絵は、どこの景色ですか?」
「想像で書いたの。この建物の外のことは知らない。どうかな、上手にかけている?」
「ええ凄く。なんだかとても懐かしい気がしました」
自分の故郷みたいでと付け加えようとしたとき、一瞬、彼女が笑顔を作ったように見えた。しかしそれはマスクの下で起きた事であって、直接見ることはできなかった。だから高広の気のせいかもしれない。京子は期限よさそうに立ち上がって、二人を隔てる分厚い壁の前までくる。彼女のマスクから漏れる吐息で透明の壁が曇って小さな模様ができた。
「会話は全部録音されているの。だから秘密の話がしたい。近づいて」
高広は、言われるがまま立ち上がって、彼女の近くに寄ろうとした。途中、廊下の真ん中を走る白い境界線のテープが見えて、梶沢研究員の『必ず通路の右側を歩くように』という言葉を思い出し、歩を止める。
「大丈夫。噛まないよ」
京子は小さめな拳でコンコンと透明な壁を軽く叩いて待っていた。
高広はそっと線を越える。自分の後ろの方で先ほど助けてくれた看守が腰のカギと警棒の当たるような乾いた金属音をさせながら急いでこちらに向かってくるのを感じる。早くしなくては。
隔てる透明の壁に耳を押し付けると、京子はそっと呟いた。
「私が怖い?」
「あんまり」
やっぱり笑った。透明の壁に開いた電子レンジで温める時にあけるラップの穴みたいな穴から、京子は人差し指を出してチョイチョイと指先を折る。
握手を求めているのだと気が付いて人差し指と親首でつまみ上下に動かす。
柔らかく、温かい指だった。スッとその指が中に引っ込んで、同時に看守が警棒を持って壁と高広との間に体を押し込んで距離を取らせる。
それを高広は過剰な反応だと思った。別に悪いことはしていないし、襲われた訳でもない。
「君は面白いね、高広君」
「できれば今日は質問をするように言われていますので、そちらにも答えてくれるとありがたいです」
「うん、まあね」
高広は持っていた冊子の後ろの方を開いて、質問欄を見る。このA4の紙であるのに、書いてある質問はたったの二つだけだった。
『欲しい物はあるか?』『まだ人間が食いたいか?』
当然高広は、前者の質問を選ぶ。
「何か欲しい物はありますか?」
「ふふ。あんまり高広ばかり質問していてずるいじゃないか。私にもさせて」
「……どうぞ」
正常な受け答えになったことに安心したのか、看守は元来た道を帰って行った。大きなため息と、二度とするなという強いまなざしを高広に向けて。
「高広はその訛りから地方の田舎町の出身だろう。家は米農家か野菜農家。あまり友達はおらず、彼女もいない。かつて言い寄られた相手もいない」
「……それ答える必要ありますか?」
「勿論。情報交換とは、価値ある情報をお互いに出し合うことではないか? 君が答えたら私も答える。少しぶしつけな質問で悪いね」
「彼女がいたことは……ない」
「フフ」
「じゃあ、こっちの質問。何か欲しい物は?」
「もう全部手に入れた」
「それでは」
高広は立ち上がって書類をまとめる。といっても薄っぺらな数枚のコピー用紙の束であるので、時間はかからない。
「高広。またおいで。次はもっとたくさん話そう」
バイバイと手を振るので、思わず反射的に上げた手を高広は下ろして歩く。
「もう一つの方は、聞かなくていいの?」
背中側から声がした。背に突き刺すような視線と、まるで猛獣に首筋を舐められるかのような気配を感じる。答えは一つだった。あんなのは女の子にする質問ではない。これでお金が支払われなかったとしても500万円はすでに口座に振り込んでいると聞く。そのお金は大学の学費をはらいきってもまだあまりある金額である。多くは望まない。それ以上にあまり綺麗な女性の気分を害するのは良くないだろう。何しろこんなあなぐらの中では気分転換さえ難しいだろうから。
「もうないです」
高広は一言残してその場を去る。それを追いかけるのは欲に塗れた獣の瞳その物だった。
硬い床を歩く。足が京子の独房を離れるにつれて、背中に感じた視線は四散していった。なんだか凄く疲れた気がする。きっと卒業論文を書き終えてもこんなには疲れないだろう。そっと正方形の檻の横を通るとき、広高は足元に赤い着物が落ちていることに気が付いた。その着物は通路にはみ出すように置かれていて、鯉の刺繍がぐっしょりと何かに濡れている。濡れることで赤い布地の下半分が濃い紅色になっていた。
檻の中を見ると、ベッドの上に背中を丸めた女性の姿があった。彼女は裸で、真っ白な肩とくびれた腰を時折ビクッと震えさせて、クチュクチュと何か濡れたものをこすり合わせるような水音を立てている。ぱっと広がったつややかな黒髪は真っ白なシーツとの対比が凄く、思わず見とれる。
急に起き上がった彼女が手をビュっと振ると高広の顔に熱い液体がかかった。
「アハァ!!犯してやった!!それお姉さんの汁だからぁ♥!!」
「イッ!!」
「高広戻ってこい!こっちだ!!」
呼ばれるがまま、高広は京子の独房の前に戻った。直ぐ彼女は壁の前に来て、顔を抑える高広を心配そうに覗き込む。
「何故右を通った。帰るときは少しでも檻から距離を取るの。大丈夫。化け物でもそうすぐには何度もイケない。さあ早く帰る。でも転んではいけないよ」