あなぐらの中で
第3特殊収容所(収容者、種族妖怪類:性別女)。通称3番あなぐら
60年ほど前に新設された、日本政府が運営する収容施設。
その上部を一般人の入れぬ自衛隊の施設で覆い、地下10mにも及ぶ深さに埋設された監獄――その年間予算は全国の恵まれぬ子にシュークリームとケーキを毎日食べさせてなお、おつりがくるほど。
収容人数は規定により、たった4人だけだ。膨大な予算に対するこの規模は日本では異例の物であり、その収容者の特殊性によるものだった。
近くの大都市まではおおよそ30km。しかし、ここに収容されている人物に対して距離はあまり意味を持たない。
ここに収容されている者は、比較的気性が激しく、俗にいう人を食う部類の物だ。
ただ捕まえるだけで中隊が壊滅させられるような怪異を囲う、年に一度の特別な日を除いて部外者が一切入ることのない施設。それが『あなぐら』である。
ここにそれ等がとどまっているのは、いい子に暮らすだけでポイントが付き、それに応じて何でも手に入れることができるからだった。この世界で手に入るものなら何でも。五月蠅い警察に追われることもない。
京子はその薄気味悪い監獄の中で17年間暮らしてきた。
監獄に朝や夜はない。一日中煌々と焚かれたLEDの明かりが部屋のいたるところまで差し込んで、各々が好きな時間に明るい中で眠るのが当たり前の生活である。
一日の最初に起きてすることは、大きく伸びをして硬くなった体をほぐすことだ。支給されているベッドのクッション材は暴れても大丈夫なようにとても固く、寝ると体中が痛くなるのだった。そのころになると見計らったように看守が食事を運んでくる。
朝食は8枚切りのパン一枚と大麦のオートミール。プラスチックのコップにわずかばかりの牛乳が入っている。ついている日にはこれに温野菜が一皿付く。
それから画用紙にクレヨンで絵を描く。見たことのない山や街の景色を想像して手を走らせる。頭の上からラッパが鳴って、ちょうどお昼ごろ、汚れた手を水道で洗って昼飯となる。
昼飯は麦の入ったご飯と魚の切り身が薄黄色の油に浮いたスープが出る。
それから絵を描いて、お昼寝をして、夜になる。夕飯には豆のスープとコッペパンが出て、運がいいと時々そこに赤いジャムとマーガリンが付く。京子はそれがたまらなく好きだった。そして自分が眠くなるまでベッドに横になり四角い部屋の天井を目で追って時間を潰す。
確実に時間間隔は崩れていく。寝ているのは夕方かもしれないし、あるいは朝かもしれない。
そんな毎日。
ここにとらわれて最もきついのは自由が保障されない事だった。
その日は、京子の機嫌が朝から良かった。朝から毛先の広がった一本しかない歯ブラシで丁寧に歯を磨き、随分と長い間使っていなかった櫛で髪をとく。一日に三回も顔を洗って、今やおそしと独房の中を行ったり来たりと落ち着きがない。
「ん~♪」
本日何度目か分からない、全く同じ動作で、髪の毛を後ろに束ねる。独房の中ではできるおしゃれが限られていた。
毎日溜めたいい子ちゃんポイントを使えば、お化粧品も手に入れることができるが、彼女には他に使い道があった。それもポイントのうんとかかる奴。
その時、待ちに待った音が聞こえた。肌が粟立つというのか、京子の胸の中で熱い物が揺れる。
――話し声だ。――待ちに待った人間の。
抑揚の付け方や、空気を実際に震わせるその音は、テレビやラジオから時折聞こえてくるそれとは全く違う。間違いない。生きた人間の、それも若い男の声。
慌ててベッドから立ち上がり椅子に腰かけて、自らの服に異常がないことを確認し、じっとその声の主が来るのを待つ。京子の独房と通路とを隔てる壁は、分厚いポリカーボネイト製である。警察の防具にも使われる丈夫な素材でできており、まるでガラス張りのように外が良く見えた。そこには背もたれのない丸椅子がぽつんと置かれている。この日のために用意した物だった。
再び聞こえる声。
京子の心臓は激しく脈打って、口から飛び出てしまいそうだった。実はこの施設の外の人間に会うのはこれが初めてだった。
すぐ隣で声が聞こえた。悲鳴だった。
素早く立ち上がって壁に顔がめり込みそうなほど顔を押し付けて隣を見る。
京子の視界、かなり近い位置に男の姿があった。隣の住人が短く息を吸うような悲鳴を上げて、鉄格子から手を一杯に伸ばしておいでおいでをしている。
隣で寝起きしているので、どういうやつかは重々承知している。酒を飲んだ時のように頬は赤らめ、目を爛々と輝かせ、長い爪先をまるでダンスに誘うようにゆっくりと折り曲げて気を引こうとしている――京子は歯を噛みしめ、なんとか我慢をし、怖がらないように最大の配慮をする。
看守の怒号が飛んで、シュンと狼はその手を独房に戻した。
胸の鼓動と共に、背中に緊張から大汗をかく。後悔にも似た不思議な感情を抱くのは、自らの身の上とは随分と違う生き物が目の前にいるためか。
京子はゆっくりと目を開けて、足元から眺めていく――
そして光を見た。
そこには真っ直ぐに目を見つめてくる人の姿があった。
ある意味にはバカともいえる。あるいはお人よしとも。
真っ白な生地に見慣れぬ言葉の書かれた服を着て、まるでここにはないはずの太陽からから生み出されたようだった。
想像以上にガッチリとした体つきは明らかに自分の物とは違う。その瞳には好奇心にも良く似た輝きがあって、自分に対する恐怖や畏怖といった、予想をしていた嫌な物が全く見受けられない。
しかし顔には随分と柔らかな笑顔が張り付いていた。まるで見世物小屋のサルを見るような目だった。
「あぅ……」
随分と練習した挨拶は、口から漏れる変な音として再生された。それは顔が燃え上がるような恥ずかしさであり、今すぐにでも布団にくるまって丸くなっていたいと思うほど。ここにとらわれている辛さなど、もはや感じていなかった。それどころか、強烈な恥ずかしさ以外感じる余裕はなかった。
ぴくりと動いた指先に思わず目を向ける。今にも悲鳴を上げて逃げてしまうのではないかという不安があった。恥ずかしくて目をそらしたいのにそれをすると次の瞬間にはすべてが夢で、消えてしまうのではないかとおもう。
「話し相手になりなさい」自分の口から出たのは随分と冷たい言葉だった。