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恋に金棒  作者: ねっしー
10/13

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 スピスピ。

 

 壁のはじっこ、見えるか見えないかくらいの所に、こぶし大の鼻先が突き出ている。鼻先の毛の生えていない黒い所だけで拳ほどもサイズがあるのだ。あれ犬じゃないんじゃないかなーなんて思っていると、ギリリと歯を食いしばる音が隣から上がって、ここにいるおでこから角の生えた少女がブチ切れ寸前であることを知る。

 そう、彼女らには、この住処は狭すぎるのである。当然それはささいなことでも隣人トラブルの原因になる。殺したいとも思うかもしれない。壁ドンとかするかもしれない。


「高広。たのむから、けがれを知らないでくれ。そしたら私は君の願いをほとんど叶えられるだろう」

「穢れとか、ちょっとよく分かんないです」

「あの、だな」

 京子は、耳の先まで赤くして、実に言いにくそうに、そして自分の胸元の服を寄せるようにして言った。

「エッチな事とかしないでほしい」

「しない!」

「本当か。誓えるのか?」


 随分と重い話の仕方である。それが彼女の限界だった。京子は外の人間と話す機会がなく、この暗いあなぐらの中で誰かと話す妄想のみのシミュレーションしか行っていなかった。それも頭の中では何度となく行った物だったが、自分の口から紡がれる言葉が実に粗暴で、可愛げのない物だと自分自身が分かっていたために、それは余計にそっけなく、どうしても距離を置くように聞こえてしまう。


「俺には、そういうことをする相手がいないよ」

「あの狼はどうだ? お前、その気になっていなかったか?」


 壁のはじっこに見えている鼻先が一層鼻息を荒くして、立てかけているアクリル板に白い曇りを作った。ワゥなんて鳴きながら、チャッチャッチャっと爪の音を残してそれは帰る。


「きっと相手にもされないさ」

「そんなことない」

「実は彼女、少し獣臭いんだ」


 勿論それは冗談。彼女は石鹸の匂いがした。でもあの犬の見た目は、良い意味で可愛らしく、抱き着けばお日様の匂いや、あるいはほんの少しの埃っぽい匂い、朝露に濡れる芝生の匂いがしそうだと思って、こう言った。昔、実家に来た野良犬がそんな感じだった。


 それで初めて京子の顔には笑顔が戻った。まさかそういうとは思わなかったらしい。


「私もね、実は他の女のニオイが大嫌いなんだよ」


 おそらく、柔軟剤や香水の匂いが嫌いなんだろうと高広は考えて深く掘り下げなかった。彼自身大量のハーブの中に置かれればくしゃみが止まらないし、大型用品店の香水売り場は、毒ガス売り場と変わらないと思っていたので、納得した。


「私はさ、くさく、無いかな?」


 京子はそんなことを気にして、自分の脇の匂いを嗅ぐのだった。


 廊下からカタカタと音がする。聞きなれぬその音は次第に大きくなってくる。やがて姿を現したのは白衣に身を包んだ職員で、両手で胸の高さにお盆と銀色のケースを持っている。随分と厳重であるので、高広は何かの研究基材でも持って来たと思った。カタカタと音を立てているのは、研究員が震えているからで、その目は伏せ目。まったくこちらには目線を上げず、黙って床に持って来たケースを置いてそそくさと帰っていった。

 なんだろうと思って開けてみると、おいしそうな匂いが広がった。良く煮込む事によって濃縮されたデミグラスソースにとても一口では食べきることのできないサイズのハンバーグとちょこんと付け合わせのブロッカリーが肩まで浸かっている。その隣にはなぜか米が立つほど固く炊かれた米がよそってあって、付属した食器は透明な物だった。プラスチックだ。

 高広は自分の頼んだハンバーグだと知って、それを持って京子の隣に座り、いただきますをしてハンバーグを切ってみた。するといいひき肉らしく、中までギッチリとつまった肉の断面から肉汁が溢れだして鼻先をくすぐった。一口含んでみてああなるほどうまいと思う。きっと自衛隊は外に出ることが少ないから食事には気を使っているんだろう。ただ白米が恐ろしく固い。なぜこんな硬さなのだろうと思っていると、じーっと見る視線があった。京子は目を皿にして、肉を目で、鼻で、食っていた。


「あーお腹いっぱいだなー。残そうかなー」


 ジュルリ。


「捨てるのは勿体ないから、どこかに食べてくれる人はいないかなー」

「そこまでいうなら仕方がないか。私が食べよう」こういう話になる。


 彼女は女性であり、そこそこの年齢であるから、きちんと気を使わねばいけないことを高広は分かっていた。勿論それは子供もっぽい行動であるとも言えたが、「食べさせてあげようか?」などと聞かれて、京子がうん!という訳がなかった。彼女にもプライドがあるのだ。


 ただフォークに肉だけさしてしまって、棒付きアイスクリームをほおばるみたいに食いつく姿はなんとも可愛らしい。彼女がろくな食べ物を食べていないのは知っていたので、これは高広の好意でもある。


 食べ終わった食器を廊下に出すと、ニオイにつられたらしいワンコが皿ごとトレーを強奪し、隣の部屋でべろべろとやる音が聞こえた。彼女もまた、ろくなものを食べていなかった。


「いや、肉は久しぶりに食べた」

「そう」

「高広お前いいやつだな」

「そんなことないよ」

「気に入った。褒美をやろう」

「じゃあ……」


 高広が願い出たのは、『一緒に寝たい』ということだった。


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