彼だけが救う花
「どうか許さないでください」
腕の中彼女は、どんどん透き通っていく。ただでさえ軽い重さが、すり減っていく。いかな神に選ばれた聖女といえど、世界の穢れをたった一人で浄化するなんて離れ業、その代償は計り知れない。彼女はそれを承知で、世界の浄化を行ったのだ。
淡く光る彼女は、自分が消えかけているというのに、穏やかに微笑んでいた。
薄れゆく彼女の存在を瞳に刻み付けながら、彼女の言葉を反芻する。
許さない? 彼女を犠牲にしてまわる世界のことだろうか。そんなもの、許すも許さないもない。彼女を抱く自分の内側で、こんこんとどす黒い感情が溢れていくのが分かる。
彼女にもそれは伝わったようだ。疲労困憊で、指ひとつ動かすことすら辛いだろうに、彼女は自分に向かって腕を伸ばした。彼女の指が自分の頬に触れ、瞳の縁に溜まった涙を拭う。
「この世界の在り方を、どうか、諦めないでください。私には、時間がなくてこの選択しかできなかったけれど、──どうか、これからの聖女が、犠牲にならない方法を」
そこから先は、声にならなかった。彼女の体はもう、ほとんど透明になっている。
それでも、はっきりと聞き取った。
“あなたなら、見つけられます”
彼女の、遺言を。
「やった……やったあ!」
少し遠くで、少女がはしゃいでいる。
「浄化できました! そして私も生きてる! やりましたよ、皆さん!」
今代の聖女は、歴代に比べ大層俗っぽく、有り体に言えばやかましかった。だが、世界を思う心は歴代にひけをとらなかった。特に、世界を救って、その一部である自分もきっちり救う、という強い信念を持っていた。頑なにがむしゃらに頑張り続けた今代だからこそ、成し遂げたのだろう。世界は聖女を犠牲にすることなく、清められていた。
彼女との約束から、何年何十年何百年経ったのか。いつからか、数えることすらやめてしまった。
それでも、ようやく、たどり着いた。
ああ、今代の仲間たちの歓喜の声が遠い。
両の足で立っていることすら辛くなって、膝をついたつもりだった。しかし、地面にぶつかるはずだった足は空を切る。
己の手のひらを見れば、かつての彼女のように、薄れてきていた。
どうやら、自分にも時間が来たらしい。
あの時、彼女を成す術もなく見送ったこの場所で、彼女との約束を果たして尽きる。
ああ、とても。
瞳を閉じる。
──とても、満足だ。
「大賢者さん?」
聖女は気付いた。抱き合い笑い合う仲間たちの中に、彼の姿がないことを。
何百年も生き、世界の浄化について誰よりも真剣に取り組んでいた彼の尽力がなければ、聖女である自分は人柱として、この身を捧げることになっていただろう。
歴代の、聖女たちのように。
振り返った彼女は、ただ彼の愛用していた杖が地面に転がっているのを見つける。それを目にして、彼女は察した。
全ては、終わったのだ。
不意に、聖女の胸元が熱くなった。
取り出したのは、彼より託された聖女の首飾りだった。聖女ははっきりと思い出す。これを渡した時の大賢者の様子を。彼が、それを身に付けた聖女を通して、遥か遠くの誰かを見ていたことを。
聖女は何かに突き動かされるように、杖に首飾りを絡ませた。
束の間、幻が聖女の瞳に映る。
ローブ姿の青年と、聖女の装束を着た少女が穏やかに笑い合い、見つめ合っていた。
聖女が瞬きをすると、杖と首飾りは忽然と消えていた。
聖女の役目を終えた少女は、清々しい気分で、呟いた。
「どうかお幸せに」