それよりもシャワーを浴びたい
哲彦と別れてわたしは来た道を戻り始めた。ほんの1時間前に走った道をまた走るというのはデジャブのようで、おかしな気持ちだった。
哲彦とは携帯のメールアドレスを交換して別れてきた。こんなに疲れていなければ、もっと気分が良かったかもしれない。旅をしているような気持ちに溢れていて。
そう思った瞬間、家のことを思い出した。
もう、父は帰ってきているだろう。わたしが残してきた書き置きに気付いたかもしれない。しばらく大学の方で就職先を探す、と書いてきた。下手な言いわけだと、すぐに気付くだろう。ため息でもついて、あきれるだろうか。それとも、顔も見ないで出ていく娘に腹を立てるだろうか。
たぶん、両方だろう。
当分、家に帰りたくないなあ。
そう思った瞬間、家出少女のようだ、と思った。
23にもなって家出少女か。
気温はぐっと下がって、わたしは震えていた。
もうすぐ、深夜の時間帯になる。交通量が減って、信号にもひっかからなくなった。でも、おかげで寒い。エンジンからの熱気は走っているとほとんど感じられない。ジーンズ一枚の足は痺れたようになっていた。
もう駄目。耐えられない。
ついさっき、コンビニで使い捨てカイロを買おうと思ったけれど、もう置いていなかった。季節外れだから。
けれど、わたしにとっては必要な季節よ。そう思ったけれど、無いものは仕方無い。ホットコーヒーとタバコを買って、気分だけ暖まった。
そんなの、すぐに効かなくなってしまう。
それどころか、トイレにまで行きたくなってきた。
目的地まで60キロ、の道路標識を見た。それから、パーキングに入って、トイレを使った。だんだんと、頭が働かなくなっていく。ただ、まっすぐな国道を走っていく。周りは大型トラックが増えて排気ガスが気持ち悪い。
12時ごろになっていた。
疲れと眠気と寒さでぼうっとする。腕が痛いし、お尻も痛い。腰も痛い。寒さで首をすくめているから首も痛い。
1時に大学に着いた。
もちろん、午前1時だ。
けれど、地方2流国立大学には勉学よりもサークル活動に熱意を注ぐ人達が数多くいて、その人達はサークル棟に住んでいる。
もちろん、帰る家はあるけれど、ほとんどそこにいる、という意味だ。
わたしは、バイクを停めて、通り慣れた階段をこわばった足で上る。
3階の奥に、わたしのサークル室はあった。もちろん、今は違うのだけど。
「杉並大学探偵事務所」
そう、アルミのプレートに刻まれている。東京の杉並区とはなんの関係もない、地方国立大学の杉並大学のサークルの一つ。本当は、探偵小説、及び映画研究会の、杉並大学探偵事務所。
わたしはポケットからキーを取り出して、その鍵穴に差し込んだ。
卒業する際に、返さなかったスペアキーだ。
けれど、鍵はかかっていなかった。
「あれ?奈々先輩?」
開いたドアの向こうには、間抜けな声を出して、田辺が立っていた。
わたしは、ビールよりもシャワーを浴びたかった。
世の中には嫌いなものが一杯あるけれど、ディーゼルの排気ガスもその一つだ。小さい頃、わたしはすぐに乗り物酔いをする子供だった。とくにバスは苦手だった。遠足の時、必ず気分が悪くなって、みんなが見学やリクリエーションをしている間、先生に付き添われてバスのシートで寝ていた。
あの、ディーゼルとタバコの混じった匂い。観光バスって、タバコ臭いんだもの。
その匂いが体中からする。
タバコは自分で吸ったからだけど、ディーゼルはトラックのせいだ。
それに、あれは白いTシャツが灰色になるくらい汚いのだ。一度、夏にバイクで出かけて、シャツを駄目にしたことがある。そんな空気を吸って大丈夫なのか、とも思う。
とにかく、わたしはシャワーを浴びたかった。
けれど、田辺はビールだ、ビール、と叫んで後輩をコンビニに走らせた。
そりゃあ確かに、わたしは大学にいた頃ビールばかり飲んでいたわよ。でも、疲れているのよ。
「奈々先輩が来ることが分かっていたら、ちゃんと用意しておいたのに。」
田辺はそう言いながら、せっせとテーブルの上の書類をどけていた。ちょっと、今から宴会するつもりじゃないでしょうね?
「つまみ、どうしますか?」
「え?」
疲れて、わたしは休みたいのだけど。
「とりあえず、ウイスキーならありますけど、水割りでも飲んで待ちますか?」
そう言いながら、田辺は冷蔵庫から氷を取り出し、オンザロックを作り始めた。ウイスキーはジョニーウォーカーの赤ラベルだった。
「それより、顔を洗いたいのだけど。」
わたしの言った言葉は耳には届いていないようだった。
「あ、ちょっと濃すぎた。」
そう言いながらコップをわたしの前に置く。せっかく作ってもらったものを無視するのも悪いから、そっと口に運び、わたしは眉をしかめた。確かに、濃い。
「いやあ、うれしいっす。こんなに早く奈々先輩が来てくれて。」
そうか。でも、わたしは早く寝たい。
「僕ら新学期が始まったばかりで、探偵をやっている時間無いですし。」
おい、そういうことか?
「とりあえず、インターネットと、役所に行って調べられるところは調べてきました。」
そう言いながら、田辺はパソコンの電源を入れた。
「小早川さんが言うには、問題の団体は宗教施設だそうですけど、どうやらそうではなさそうですね。」
わたしは、少し飲んだ水割りに水を足した。もっとも、水を足して薄くなったからといって、アルコールの総量は減ったりしないのだけど。
「どちらかというと、『セミナー』と呼ばれるタイプのものみたいです。」
わたしは、ぼうっとして聞いていた。たぶん、明日には覚えていないだろうな、と思いながら。でも、反射的に聞き直した。
「セミナー?」
「ええ。自己啓発セミナーっていうやつです。しばらく前に社会問題にまでなったやつです。」
「まだ、やってるの?そういうのって。」
「ええ。名称なんかをかえながら、少しづつ変化はしているみたいですけど。」
「ふーん。」
上の空だった。明日にしてくれ、明日に。
そこへ、田辺の後輩が帰ってきて、コンビニのビニール袋をテーブルの上に置いた。
「買ってきました。田辺先輩。」
「お疲れさん。この人は、去年のうちの所長で、蓮田奈々さん。」
そう言って、わたしを指差した。
「こっちは、今年入った、高橋くん。」
そう、わたしに紹介して、田辺はビニール袋のなかからキリンの淡麗を取り出した。
「高橋は、明日の講義、何限から?」
「えっと、2限です。」
「じゃあ、まだいいよね。一緒に飲もう。」
迷惑な先輩だ。
「もちろんです。奈々先輩のことはいろいろ噂を聞いています。殺人事件も解決したことがあるとか。すごいっすね。」
わたしは、あいまいに微笑んだ。それよりもシャワーを浴びたい。
「やっぱ、危険なこととかあるんですか?」
わたしは、微笑んだまま何も言わなかった。かわりに田辺が言った。
「やっぱり状況判断が大切だよ。自分の身の危険を返りみないで単独行動すると危険な目にもあうからね。」
お?田辺も偉そうに。それから、田辺はこっちを向いて、
「それより、小早川さんの件、明日から現地調査に行こうかと思っていたんですけど、僕の替わりに行ってもらえますか?奈々先輩。」
「え?」
「卒論がやばいんです。」
なるほど。よく聞いておいたほうがいいわよ、高橋君。入れ込んでいると、必ずこうなるんだから、このサークルは。
「その話は明日にしましょう。眠いの。疲れているし、シャワー浴びたいの。」
わたしは、そう言った。
「あ、分かりました。じゃあ、飲みましょう。奈々先輩が来てくれたことにかんぱーい。」
何を聞いていたの?田辺君。