お金が無いから道に迷う
シャワーから出て、少しすっきりした頭で留守電を聞き直す。
父親は、夕方帰ってくるらしい。
会いたくはなかった。どうせ喧嘩になるに決まっていた。わたしの将来はどうするのか、とか就職しないつもりなら、結婚してしまえとか、そういう言い合いになるに決まっている。わたしたちは、顔を合わせる度に同じ言い合いをしていた。それは、大学にいる頃からそうだったし、これからもそうだろう。
とにかく気が重くなって、洗濯物を洗濯機に詰める作業で気を散らそうとした。
真夜中だというのに、掃除も始めて、我ながら馬鹿みたいだ、と思っていた。
大都市からは離れた郊外に、というより田舎に家が建っていたから、隣近所に迷惑になるなんて事は無かったから、大きな音を立てても問題は無いだろうけど、何故だか田舎の人っていうのは、深夜に掃除をしていた、とかそういう事を知っていたりするから不思議だ。
洗濯物を乾燥機に放り込み、スイッチを入れた。この間までは父親の一人暮しだったから、この家にはいろいろとそれらしい機械が揃っている。問題は、調理器具が貧弱なことくらいだ。逆に言えば、他人の部屋にいるような居心地の悪さもある。何もかもが、他人のやりやすいように出来上がっていて、少しづつ違和感がある。自分の部屋はあるのだけど、引っ越し後の荷物がまだほどかないまま段ボールに詰まっていて、物置のようになっていた。まるで居候のような気がした。
乾いた洗濯物を屋内に干すころには空が明るくなり始めていた。今日も天気は良さそうだった。一通りの家事が済んで、わたしは、逃げ出したいと思うようになっていた。
FZR、というのがバイクの名前だった。
ヤマハが作ったバイクで、92年型というから10年も前のバイクだ。400の割りに小さくて軽い。けれど、驚くほど馬力があって、時速200キロくらいは出る。こういうのを当時レーサーレプリカと呼んだそうだ。レーサーの模造品ってことか。
洋一がこれに乗っていたころ、彼はよく文句を言っていた。公道で乗るにはサスが硬いとか、なんとか。
確かに乗り心地は悪い。荷物を後ろのシートに括り付けて重いっていうのに、道の悪いところでは胃が気持ち悪くなってくる。もちろん、お尻はとっくに痛い。
ま、これでは売れなくもなるわ。最近、400では、こういうバイクは作られなくなった。
夜明けとともに出発して、お昼が過ぎた頃、わたしは国道をひたすら北上していた。リアシートの大きなバッグの中には気替えが詰まっていた。
大型トラックが車間距離を詰めてきた。ゆっくり走らせてももらえない。わたしはウインカーを点滅させて追い越し車線に移るとギアを落としてアクセルを一気に回した。
あっという間に60を指していたメーターは120まで上がった。エンジンはけたたましいうなりを上げていた。ギアをあげてさらに加速する。150キロでヘルメットが浮いてきて、わたしはスピードを落とした。スピードが出ているほうが乗り心地がいい。
本当は高速道路に乗りたかったのだけど、お金が無いから一切使わないことにした。
急いでも仕方無いし。
大型トラックが道をふさいで、わたしは速度を落とした。ディーゼルの排気ガスがくさかった。いかにも体に悪そうな感じがする。バイクの乗り心地の悪さとディーゼルのおかげで気持ち悪い。
ウインカーを出して走行車線に戻った。ふと見るとマクドナルドの看板があった。わたしはそこに入る事にした。そう言えば、昨日の夜から何も食べていなかった。
気持ち悪かったけれど、ハンバーガーを一つ食べると、お腹が減っていたことに気が付いた。ビールでも飲みたいところだけど、バイクだし、我慢した。ポテトを食べながら、地図を広げた。
こんな気持ち良く走れない道はうんざりだ。もっと交通量が少なくて景色の良さそうな道はないか、と思ったからだ。せめて空気が良さそうな道はないか?
ポテトをコーヒーで流し込むと、まだ食べられそうだと思えた。もう一つハンバーガーを注文しようと思ったが、ハンバーガーを食べたいのではない、と気が付いた。何か別の食べ物が食べたかった。おいしいものがいい。
お金は無いけど。
わたしはコーヒーをおかわりして、地図を眺める作業に戻った。しばらく行ったところに、右折する道があった。少し遠回りになるけど、山合いを抜ける道だった。わたしはその道へ行く事にした。
交差点で右折して格段に走りやすくなった。片側1車線の3桁国道だけど、交通量が少なくてそのうえ、走れば走るほど民家や商店も減っていった。信号も少ないから、速度は乗らないけどスムーズに走ることが出来た。道自体は時折曲がっていて、谷を抜けるような感じになっていたりするけど、バイクにとってそれはマイナスポイントでは無かった。車体を傾けて走り抜けるのは楽しい。
そして、だんだんと山の中へ入っていった。
峠は、FZRにとって一番似合うところかもしれない。サーキットを除いては。腕さえあれば、ものすごい早さで通り抜けることが出来る。でも、わたしは景色を楽しみたかったから、それなりのペースを保っていた。景色が眺められるいいポイントがあったら止まろうとすら思っていた。
峠は文字通り、本来その道の一番高い場所を差し示す。つまり一点であって、ワインディング全てのことではない。上り坂と下り坂の真ん中でしかない。けれど、いつの間にかワインディングロード全体をそういうようになった。たぶん走り屋漫画のせいだろう。
いつの間にか、わたしだって使っている。
でも、とにかく峠の道を走るのは楽しい、と思えるようになっているから不思議だった。少々早くコーナーを抜けたからって早く目的地に着けるわけでもないのに。
そうして、突然視界が開けた。
道路の脇に少しだけ駐車スペースがあってそこにバイクを寄せると、わたしはヘルメットを脱いだ。
眼下には、海まで見渡せるとても広い景色が広がっていた。
わたしが走ってきた道を無意識のうちに探していた。たぶん、あの線がそうだろう。あそこで川を渡って。じゃあ、最初に走っていた国道は?
水平線までくっきりと見えた。雲もなく、天気がとても良かった。
時折、車のガラスか何かがお日様を反射して光る。川は緑の縁どりをまとって流れている。車が胡麻粒のように小さい。なのに、ゆっくりゆっくり動いていた。
「どこまで、行くの?」
そう突然声をかけられて、わたしは驚いた。振り向くと、そこには一人の男が立っていた。わたしは、大学のある地名を言った。
「じゃあ、この先に進むのか。」
わたしは微笑んでみた。他にどうすればいいのか分からなかったからだ。
「この先、通行止めになっているよ。」
「え?本当に?」
わたしは驚いて聞いた。
「ああ。なんせ、今通行止めの措置をしてきたばかりだから。」
良く見れば、その男は作業着を来て、その胸には、ナントカ道路事務所とか書いてあった。男の後ろには黄色の作業車が止まっていて、通行止めや工事中の看板が載っていた。
「どうしよう。」
わたしは思わずつぶやいた。
「戻ってもらうしかないね。崖崩れだから、バイクでも通れないよ。」
そう言うと、男は車の方へ戻りかけた。わたしは無言で見送った。複雑な気持ちがした。悪い知らせを持ってきた無愛想な人物だが、この情報を聞かなかったなら、わたしは無駄な時間を取られただろう。
「気を付けて。」
男はそう言うと、車を走らせ始めた。
わたしは、ため息をつくと、今から戻らなければいけない道を眼下に探し始めた。