酔いどれ探偵、懇願される
『お願いします。他に頼れる人はいないんです。友美は蓮田さんのことをよく話していました。とてもいい人だ、わたしもああいうふうになりたい、と。』
びっくりした。友美とは、それほど仲がよかったわけでもない。ただ、同じゼミだったから、何度か食事を一緒にしたりもしたけれど、そんなに深い話をした覚えもない。第一、自分が人に尊敬されるような素晴しい人間でもないことは、わたしが一番よく知っている。このわたしは就職すら出来ない人間なのだから。
「とにかく、わたしはもう実家に戻っておりますし、例えそちらにいたとしても、このケースはお断りしたと思います。とてもデリケートな問題を含んでいるようですし、別のところを紹介差し上げますから、そちらでお願いします。」
『ああ、そうじゃないんです。蓮田さん、あなたじゃないと駄目なんです。あの子は、友美は蓮田さんのいう事なら聞くんです。あの子は、あなたにあこがれているんです。』
だから、わたしはそんな人間じゃないんだってば。わたしは、駄目な人間なの。大学の講義にもほとんど出ていなかったし、部屋ではシャワーも浴びないでベッドに潜り込んでビールを飲んでいただけ。友美がわたしにあこがれを抱いているなんて何かの間違いに決まっている。
「わたしは、友美さんが言うような人間ではありません。何処にでもいる大学生です。いえ、大学生でした。今は、ちょっとだけ珍しい就職浪人です。」
『そんな。』
その一言にどういう意味があるのか、わたしには分からなかった。「そんな謙遜を。」かしら?謙遜では無いけれど。
『そんなことは、どうでもいいんです。』
そう来たか。
『蓮田さんに友美はあこがれているから、あの宗教に出入りするようになったんです。ですから、蓮田さんになら、友美を連れ戻せるはずなんです。』
どういう意味だ?わたしは友美に宗教を進めた覚えなど無いし、わたしだって、新興宗教をやっていたことはない。
「つながりがよく分かりません。どういうことですか?」
正直にわたしは聞いた。
『友美が言うには、その団体は自分自身の改革をするのだとか。自分に自信を持てるようになるのだとか。蓮田さんは、自分に自信を持っている、とか。そういう事を言ってました。』
わたしに関する事実はさておき、友美はそう言った、と聞いておくべきだろう。友美は会わなかった一年間のうちにわたしという形の理想像を作り上げたのかもしれない。テレビのヒーローにあこがれるように、自分の中で、実際とは違った理想像を作り上げていったのかもしれない。たまたま、彼女の場合、わたしという形だっただけの話だ。わたし本人とはなんの関係も無い。
「友美さんが頭の中でどういう人物を思い描いているか、分かりませんが、一つだけ分かることがあります。それは、わたしにはこのケースをうまく導けないということです。」
とにかく、わたしはそう言った。引き受けるわけにはいかないではないか。くどいようだが、わたしは現場から300キロも彼方にいるのだ。
『駄目でもいいんです。友美を説得して下さい。お願いします。ただ話してくれればいいんです、あの子と。ただそれだけでもいいんです。』
最後の方は涙声だった。わたしは、とうとう断わり切れないように思えてきた。ただ、友美に会って話をするだけのことを頼んでいるのだ。それを断わることがわたしには出来なかった。それが、まったく役に立たないことが分かっていても。それに、わたしは暇を持て余している。暇があるのに、忙しい振りをして力になれない、などというほどわたしは非人道的では無い。もっとも、就職活動はしなくちゃいけないんだけど。で、結局わたしはこう言った。
「わかりました。でも、期待はしないでください。友美の中のわたしと、現実のわたしはおそらく違うものでしょうから。」
すっかり気が重くなった。いずれにせよ、300キロ彼方まで行かなくちゃいけないんだろう。一年も会っていない知り合いのために。
『ありがとうございます。本当にありがとうございます。』
そういう感謝の言葉も、ちっともうれしくなかった。いったい、どうしてだろう。人を助けることに喜びを見い出していた時期もあったというのに。
「じゃあ、とりあえず、田辺に替わってもらえますか?説得するにも、友美さんの入れ込んでいる宗教について調べた方がいいと思いますし。そのあたりの調査を彼にやってもらう、ということでよろしいですか?」
一応、これを田辺の仕事として、大学サークルの活動にしようと思ったからだ。そうすれば、田辺だってバイトになるし。OBとしては、そういう話にするのが筋かな、と思ったからだ。
『ええ、わかりました。お願いします。』
「じゃあ、細かい打ち合わせは後で田辺君としてください。とりあえず替わってもらえますか?」
電話をがちゃがちゃと置く音がして、田辺が電話に出た。
「田辺君、お母さんに友美のことよく聞いて、宗教団体について調べてくれるかしら?とにかく、相手のことが分からないと、対応しにくいし。やるからにはいい結果を出したいわ。」
『ええ。分かりました。じゃあ、話し合って、それから連絡します。』
「よろしく。出来れば、メールで送ってくれるとうれしいわ。電話には出ないかもしれないから」
それから、電話を切った。
食欲は無くなっていた。吉野家のことも、途端にどうでもよくなった。冷たい玄関で、わたしはぼうっと立ったまま携帯の画面を眺めていた。一体、どうしてこんなことになっているのだろう。
わたしは実家に帰ってこれば、今までの怠惰な自分を少しでも矯正できるもの、と思っていた。今までのわたしは、本当に駄目な人間だったと思う。卒業できたのも、ただ単に担当教官の温情に過ぎない。わたしは最低限の事をやったに過ぎない。だから、わたしの卒業論文なんて、中味の薄いものだ。わたしにとっても、価値のないものに過ぎない。毎日が意味も無く過ぎていって、ビールとウイスキーの空き瓶ばかりが増えていった。卒業して、生活を変えるのはいい事だと思った。
なのに、どうして大学にいた頃と同じ事をしようとしているのだろう。
実家に帰ってきても、結局は以前と同じ生活をしている。
父親は出張が多いから、一人になることが多いし、わたしは怠惰なままだから、積極的に就職活動するわけでもない。ついウイスキーに手を伸ばしてしまう。今日はそうしないために出かけたのだ。気分を替えて、就職活動に専念しようと。
わたしはフリーザーの中から凍る寸前に冷えたウイスキーを取り出した。
ウイスキーはフリーザーに入れても凍らない。ただ、少しどろっとするくらいだ。コップについで、ストレートで口に含む。
冷え切った液体が喉を焼いた。