マイケルとルドルフのようなもの
家の玄関を開けて、中にはいると部屋の空気が冷えていた。
誰もいない、がらんとした一軒家。
父は出張に出ていて来週にしか帰ってこない。母は、随分前に出て行って、おそらくもう帰ってこない。あとの家族はいない。そういえば、以前はもう一匹の家族がいたけど、あいつは死んでしまったから。シロと言うありきたりの名前をつけられた黒い犬だった。黒い犬に、シロという名前をつけたのはわたしだったけれど、だって、その時はわたし、まだ7つだったもの。犬の名前はシロがいい、と思い込んでいたわたしは、父親がもらってきた小犬にシロと言う名前をつけると言い張った。誰からも反対されたけど、この犬がわたしにさんざんシロと呼ばれて、それが自分の名前だと思い込んでしまった。だから、シロという黒い犬だったわけ。
けれど、何故そんなにも「シロ」にこだわっていたのか、わたしには記憶が無い。どうせ大した理由は無かったのだと思うけど。絵本の中の犬がそういう名前だったとか、そんなことだと思う。猫に「マイケル」とか「ルドルフ」とかつけるようなものだ。
そんなことを思いながら、冷蔵庫を開けた。
何も入っていない。
少なくても、わたしが食べたいと思うものは入っていなかった。今日も買い物に行かなくちゃいけない。
ああ、もういいや。吉野家にでも行こう。
そう思った瞬間、携帯電話が鳴り出した。父親なら、わたしは出ない。
「田辺」の文字がスクリーンに写し出されていた。今度は何?
「もしもし。」
不機嫌な声だったかもしれない。
『あ、田辺です。寝てました?ひょっとして?』
「寝て無いわ。」
『何度もすいません。実はさっきも電話した件なんですけど。』
わたしは、むっとして言った。
「断わってよ。無理だって言ってるでしょ。」
田辺は、あきらかに困った声で言った。
『ええ。そうなんですけど、その人が、今ここに来てまして。どうしても奈々先輩と話しがしたい、と言ってるんですよ。』
「そこに来ている?」
『ええ。』
「で、なに?」
『そのう、奈々先輩、小早川トモミさんって知ってますか?』
小早川友美、と言えば、大学の知り合いの一人も確かそういう名前だった。もっとも、一年は話すらしていない。知ってはいるけれど、仲がいいというわけでも無い関係だ。
「知ってるわ。」
『その母親だ、という方なんです。』
「それで?」
少し、興味が沸いて思わず聞き返してしまった。
『もしもし?蓮田奈々さん?』
突然、声が変わって驚いた。友美のお母さんなのだろう、と思った。
「ええ。」
『ごめんなさいね、突然。もうどうしたらいいか分からなくて。本当に迷惑なのは分かっています。ごめんなさいね。』
こういう時、どういう態度をとればいいのか、わたしには今だに分からない。電話だと表情で伝えることも出来ないから余計に分からない。下手に「いいんですよ。」なんて言えば、面倒事を引き受けることになるし、かといって黙っているのもなんだかおかしい。だからとりあえず、
「どうなさったんですか?」
と言うことにした。
『友美が、友美が。』
そう言って、言葉に詰まり、
『友美が、友美が。』
と繰り返した。
要領を得ない。これじゃあ、田辺が困り果てるのもよく分かる。分かるけど、そのぐらいなんとかしなくちゃ探偵事務所なんてやっていられないだろう。たとえ、サークル活動の探偵とはいえ。
「落ち着いて下さい。友美さん、どうかしたんですか?」
『友美が、友美が。』
それは分かった。
「いなくなったんですか?」
当てずっぽうで言ってみた。探偵事務所に来る理由なんてそのくらいだろう。
『いいえ。何処に行ったかは分かっているんです。友美は、友美は。」
いらいらしてきた。同情したい気持ちは無くは無かったけど、わたしは大学から300キロも離れた土地にいるのだ。結局、わたしに何を言っても、助けに行くわけにはいかないではないか。助けることも出来ない不幸について聞かされることほど無力感に襲われることも無い。けど、それだけかしら。ひょっとしてわたしは今、お腹が減っていらいらしてるんじゃないかしら。実際、お腹は減っていた。そう思ったら、ぐっと我慢するべきだ、と思ってしまった。
「落ち着いて。わたしに出来ることは協力します。まずは何があったか話して下さい。」
いいのかなあ、そんなこと言って。協力することなんか出来ないんじゃない?
『ありがとうございます。友美は、友美は。』
どうやら、名前を口にしただけでパニックに陥るほど参っているのだろう。少なくとも、この女性に関する限り、それが余程の大事件だと、そういうことだけは分かってきた。
「ええ。友美さん、何処にいるんですか?」
『友美は、友美は、宗教施設みたいなところです。』
宗教?そういうのはちょっと苦手だなあ。わたしは心理学者じゃないんだから。ああいうのは心理学を応用しないと会心させるのは難しい。連れ戻せ、って言うんじゃないだろうなあ。
『連れ戻して欲しいんです。』
あとは、「ああ。」とか言葉にならないため息のような悲鳴のような声になった。それにしても、わたしにはテレパシーでもあるのかもしれない、と再び思ってしまった。冷静になれば、話の流れとして、そういうことを頼むのは目に見えていたわけだが。
「正直に申し上げれば、うちで担当出来る問題ではないかもしれませんね。なんと言っても、うちは大学のサークルなんですから。」
わたしは、冷たく聞こえるのだろうな、と思いながらそう言わざるを得なかった。出来ない仕事は出来ないと言わないといけない。少ないとはいえ、いくらかのバイト代をもらって引き受けるのだから、責任ある態度でのぞまなければ。少なくても、そういうのが大学にいた頃のわたしの方針だった。けれど、やっぱり友美の母親は絶望したような声を出した。