桜の花が舞い散る頃に
前回の話から半年後・・・翌4月の話です。
奈々は卒業出来たんですが、社会人になれていません。
まあ、酔いどれですから。
桜の花が風に舞っていた。
わたしは一人で、もう1時間も桜を眺めていた。長い髪が風で揺れる。実家の近くには大きな川があって、そこの堤防の脇に一本の大きな桜が植えられていた。大学に入る前は、その桜を見ると春だなあ、と思った。必ず、何処よりも早く、その桜が咲いたからだ。
そこは、南北に流れる川の東側の堤防で、一面の緑の草が芝と一緒に育っていた。堤防のこちら側には、本線には流れ込まない小さな小川が流れていて、そこには時々小魚が見てとれた。
あたりを通り掛かる車もほとんどいない。ここへ来るにはちいさな砂利道を通ってこなくてならなかったからだ。その砂利道にはわたしの乗ってきたレーサータイプのバイクが停めてある。そっと風で揺れる桜と小川の流れる音に耳をすませ、目を閉じた。
5年ぶりにここへ来た。
大学で1年余分に過ごして、わたしは実家へと戻ってきた。就職は決まっていない。その理由はいくつかあるけれど、もっとも大きな理由は、わたしが怠惰だ、ということだ。ひょっとすると、大学5年間で最も変わった点は、そこかもしれない。以前はこれほどだらしない女じゃなかった。
そうっと肩に触れる感触がして、振り返ろうとした瞬間、ああ、夢を見ているんだ、と思った。そういうことが何度もあったし、これからもあるかもしれないけれど、わたしには、夢を夢だと認識しながら見ていることが多い。その時もそうだった。振り向かなくても、それが誰だか分かっていたし、その人がそこに現われるはずが無いことも知っていた。それよりも、わたしはいつの間に眠ってしまったのだろう。土手に横たわり、桜を見ていたはずなのに。
夢の中でも桜が散っていたけど、そこは現実にいる場所ではなくて、大学のキャンパスだった。春にしては暖かい。
「奈々、ダイエットするんじゃなかったのか?」
洋一がそう言いながら、隣に腰を下ろした。振り返ると、洋一の乗ってきたバイクが停められていた。わたしは、と言えば、何故か大きなおにぎりを持っていた。
「何処か連れて行ってくれるの?」
「ああ。でも、仕事だよ。浮気調査でね。」
「なんだ。でもいいよ。いつから始めるの?」
「そうだね、早いほうがいい。早いほうが。」
中途半端なところで目が覚めて、わたしは呆然とした。いや、ただぼうっとしていただけか?視界の中に、夢の中に出てきたバイクがあって、余計に混乱した。でも、それは夢だ。洋一がいるはずないんだから。え、そうだっけ?あれから、わたしは一度も洋一に会ったことが無いのだっけ?夢から覚めないまま、混乱する。あのバイクは、洋一が修理したんじゃなかったっけ?
浮気調査はどうなったんだっけ?
探偵小説や映画を研究するかたわら、実際に持ち込まれた事件の調査をしていたサークルに、わたしと洋一は入っていた。浮気調査といっても、本物の探偵ほどは追及調査をしなかった。機材は結構揃っていたけど。
わたしは、卒業する前、そこの部長をしていた。
洋一がいなくなって、わたしが部長になった。そう、だから、洋一が現われるはず無いのだ。いなくなったから、わたしが部長になった。今は、後輩に託してきた。彼の名前は田辺、だ。
と、電話が鳴った。
携帯電話の液晶に名前が表示されている。父親からなら出ないでおこうと思った。けれど、それは田辺、と読めた。
「はい?」
時々、わたしにはテレパシーがあるんじゃないかと思う。今、考えていた人物から電話を受けているなんて。もっとも、本当にそんなものがあったなら、洋一はいなくならなかったかもしれないけれど。
『奈々先輩ですか?今、大丈夫ですか?』
「ええ。桜がきれいよ。」
『え?なんのことです?』
「何でもないわ。」
わたしは、桜の花びらって、吹かれても吹かれても、なかなか無くならないものね、と思っていた。ちょっと目を離したすきにショーはおしまい、ってことにはならないのだから素晴しいわ。
『奈々先輩に聞きたいことがあって電話したんですけど、いいですか?』
田辺は何やら、電話の向こうで紙をがさがささせている。サークル室のあのデスクの上の電話からしているのだろう。ちょっとした書き物すら出来ないほど書類やがらくたが載っている。
「いいわよ。今日は何?」
『しばらく、暇、ありますか?』
「何よ、それ?」
『仕事を頼まれたんですけど?』
「ちょっと、わたしは卒業したのよ。もう手伝うわけにはいかないでしょう?」
『そうなんですけど、違うんです。』
いつもながら、田辺と電話をしていると要領を得ない。肝心なことをなかなか言わないからだ。
「なんなの?」
『奈々先輩に仕事を頼みたい、って言うんです。』
大学にいたころは、よく聞いた台詞だ。仕事を受けるのはいつも、田辺や他の部員で、実際に仕事をするのはわたし。わたしが一番暇だったからだ。おかげで、大学には1年余分に通うことになった。
「冗談じゃないわ。卒業したから駄目だって言いなさいよ。」
『ええ、言ったんです。そしたら、奈々先輩個人に頼みたいから電話番号を教えろ、と言うんですよ。どうします?』
「どうしますって、そのくらい自分で処理できなきゃ駄目よ、田辺くん。」
『いえ、友達だからって、言うんですけど、その人が。』
「友達?名前はなんていうの?」
『それが名乗らないんです。聞いても。』
そんなの、わたしにいちいち報告しなくてもよさそうなものなのに。とてもうさんくさい電話じゃない。
「じゃあ、関係ないんじゃない?お願いだから電話番号、教えたりしないでね。」
『ええ、もちろんです。僕だって伊達に3年もやってませんよ。』
あんまり、頼りにならないなあ。
「よろしくお願いね。じゃあ、またね。」
『ええ、また。』
電話が切れて、なんだかあたりは以前より静かになった気がした。誰かがわたしの声に耳をすませているような気さえした。
ふっと寂しくなった。