創造、そして学ぶと言うことについて 我、ことにおいて創造せず
創造する、ということにこだわるよりも、人生においては、「学ぶ」という言葉を心情のメインにして臨んだほうがよいのではないか。
そういう気持ちを書いた文章です。
03.10.8記
現代は、創造するということに大きな価値がおかれている時代であると感じる。
創造は、他の人にはない個性の発現と言い換えることができる かもしれない。
また、創造ということばも、大は新たな理論、体系を作り上げることから、既存のもののバリエーションに過ぎない、と思われるものまで、広く使われることばであり、定義は難しい。
私自身、少年時代、青年時代と
「他の人には考え付かないようなことを考えたい。 新しい世界を創造したい。他の人と同じようなことを考えても仕方ない」
という意識が強かった。
その意識のもと、色々な小説や文章を書いた。
しかし、今、それらのものを振り返ってみたとき、結局、「創造」という名に値するものを生み出すことはできなかった。と思わざるをえない。
もし、変わったことを書いていたとしても、それは風変わりなもの、既存のものの焼き直し以上のものではない。
創造とは、ごく稀に存在する、天才、と呼ばれる人のみに属することばであり、通常人がみだりに使ってよいことばではない、とあらためて思う。
もっとも、必要とか、完璧とか、最悪とか、本来、かなり特殊な、極端な状況を表していたはずのことばが、どんどん通俗化している現状を考えれば、軽い意味での「創造」ということばの使用にまで言及しているわけではない。
平凡な才能の持ち主が、それでもある程度のことを成し遂げたい、と思えば
「古典に学ぶ」という精神的に謙虚な態度こそ、最も望ましい姿勢であった、とあらためて 思う。
私にしても、青年時代から、一面的に「創造」ということばにのみ捉われていたというわけでもない。
時に「学ぶ」ということの大事さの自覚を持っていたことはある。
そういう精神状態のときに琴線にふれることば、というものも持っていた。
論語において:
述べて作らず。
私は自分で新しく考えたことなどなにもない。ただ、古の賢人のことばを紹介しているだけだ。
田中芳樹「銀河英雄伝説」において、アッテンボローがユリアンを評したことば :
ユリアンは作家ではなく翻訳家だった。作曲家ではなく演奏家だ ったのだ。しかし演奏されない名曲などというものは存在しない。
題名も忘れてしまったが、あるコミックでの台詞:
僕には物事を創造する力はない。だから百科事典になる。そして ○○○(この人の好きだった女の子の名前:記憶では砂緒)が、何か分からないことがあったり、何かに悩むことがあったら、何だって答えてあげることができる 。そういう男になる。
これらのことばは私にとって、そういう気持ちのウェイトが高まっていた時期においては、自分の人生の指針、目指すべきもの、そのように思っていたこともあったのだ。
片々たる創造性などに捉われることは虚しいこと。そう思う。 学ぶべきものは、この世界には無限にある。
追記:
私の古典学習法だが、原典そのものを味読するということは、まず無い。
海外の古典の邦訳も今は、ほとんど読まない。
学習法などと大上段に構えたが、そのことに 大して時間を使っているわけでもない。
私が古典にふれるとしたら、その古典の解説書を読む。概ね、内容がコンパクトにまとまっているし、通常、そういう本を書く人は、その古典をじっくり研究した成果 、自分はどう考えるかということを書いてくれているわけだから、自分の独断で解釈するよりよほど良い。
物事はそのことについて、とてもよく知っているひとに教えてもらう、と いうのが良い。と考える。