異世界からの侵略者 3
「朝倉さん。どちらへお出かけですか?」
声がかかる。
振り向いた龍哉の前に立っていたのは、町内会長の老人であった。
好々爺然とした笑顔に、むしろ薄ら寒いものを感じる。
大きく息を吐く龍哉。
「なんか俺の名前が言われましたからね。ここにいても迷惑がかかるかもだし、おとなしく出頭しようかと」
あらかじめ用意しておいた回答だ。
逃げるのではなく出頭すると言ったのには、もちろん計算がある。
引き留められないための。
こう言っておけば、まさか行くなとも言えないだろう。
「本当かね?」
笑みを崩さないまま老人が訊ねる。
意味のない質問だ。
どう答えようと、老人は龍哉の言葉などに重きを置かないのだから。
「もしアレだったら、アタシたちも一緒にいこうか?」
アレとはなんだ、とは少年は問わなかった。
透けて見える老人の本音は明白だろう。
途中で龍哉が逃げないか監視する。そして無事に侵略者に引き渡し、報酬なりご褒美をもらう。
じつに判りやすい。
少年を守って最後まで戦うぞ、などという気概は、基本的に日本人には存在しない。
日本が太平洋戦争に敗れ、アメリカ軍が進駐してきたときと同じだ。
アメリカ軍人に見えない尻尾を振ってギブミーチョコレートと擦り寄っていたのが、この老人たちの世代である。
ある意味において、非常に現実的なのだ。
もう日本には勝ち筋がないと見極め、新たな支配者の心証をすこしでもよくしようとしている。
たいへん世渡り上手だ。
「いやいや。子供じゃないんですから大丈夫ですって。家族も一緒ですしね」
にこやかに応じながら、龍哉は後ろ手に左手を広げて見せた。
両親と妹に見えるように。
そしてゆっくりと小指を折る。
カウントダウンだ。
ゼロで走って逃げるぞ、という意味である。
「龍哉くんはこの街の救世主だからねえ。ただ見送るってのもつらいんだよ」
大混乱に陥ってしまった日本。
そのなかで、なんとか秩序を保っていた小さな住宅街。
立役者が龍哉である。
食料や燃料を調達し、分配をおこない、ゴミの集積所をさだめ、ぎりぎりでも衛生的に生きていける環境を維持する。
口で言うほど簡単なことではない。
少ない食料をめぐって暴力沙汰になりかかったことだってある。
そのたびに彼が仲裁に入り、事なきを得てきた。
しかし、それだって二十日足らずだから可能だったことなのだ。
一月の寒空の下、このまま支援がなければあと何日もつことか。
だからこれはチャンスである。
指名手配された人物を差し出すことによって、彼らは生き延びることができるかもしれない。
「龍哉くん。最後の奉公をしてくれんかね?」
「本音が出ましたね。町内会長さん」
苦虫を噛み潰したような顔を龍哉がする。
犠牲を出さないように頑張ってきたが、結局、この人たちは自分以外が犠牲になるならべつに気にしないのだ。
「アタシたちだって死にたくないんだよ」
笑顔のまま、老人が右手を挙げる。
物陰から、家屋から、ぞろぞろと人間たちが現れた。
金属バットや包丁で武装しているものもいる。
最初から平和的な話し合いで解決できるとは考えていなかった、というところだろうか。
もちろんそれは朝倉家も同様だ。
だからこそ両親はストックで、美雨はバールで武装している。
「龍哉くんだけは殺すんじゃないぞ。あとのは、抵抗するならやむを得ない」
「ここは日本ですよ。なに世紀末ワールドみたいなこと言ってんですか」
じりじりと後退しながら龍哉が軽口を飛ばした。
左手のカウントダウンは、人差し指を残すのみ。
包囲の鉄環が狭まってくる。
ざっと二十人。
全員を殴り倒して、というのは、さすがに無理そうだ。
目の前の老人だけならパンチかキックで沈みそうだが、この状況で一人やっつけたところで意味がない。
「GO!」
突如として龍哉が叫び、踵を返して駆け出す。
驚いたのは住民たちだけ。
朝倉家の面々は、しっかりとタイミングを計っていた。
限界まで伸ばされたゴムが弾け跳ぶような速度で、全員が走り始めている。
一瞬の自失の後、猛然と住民どもが追走をはじめた。
口々に朝倉家を罵りながら。
恥知らずとか。
非国民とか。
石まで飛んでくる始末だ。
四対二十の鬼ごっこ。
しかしそれは長く続かなかった。
投げつけられた包丁が美雨の右足をかすめ、少女がもんどり打って倒れ込む。
「ぐぅっっ!」
ごろごろと転がって受け身を取るが、さすがにすぐには起きあがれない。
「美雨!」
龍哉が妹をかばうように立つ。
逃走を断念した父と母も。
少女を置いて逃げる、などという選択肢は最初からない。
どうする?
自問する龍哉の視線が、落ちている包丁を捉えた。
妹を傷つけた凶器だ。
あれを拾って、自分の首に突き付けるか。
ようするに人質である。
自分自身が。
侵略者にしても住民どもにしても、用があるのは生きている龍哉だ。
死んでしまえば意味がなくなる。
……はずだ。
分のいい賭けとはいえないが、もうそれくらいしか手がないだろう。
押さえ込まれて武器を取り上げられたら終わり。
あるいは逆に家族が人質に取られても終わり。
美雨を背後にかばいながら、そろりそろりと手を伸ばす。
「危地に臨んでのクソ度胸。伝承通りね」
唐突に。
本当に唐突に、声が響いた。
龍哉の前の空間が歪む。
そうとしか表現できないような謎の現象。
何もない場所から、女が現れた。
年の頃なら龍哉と同じくらいだろうか。
栗色の髪をショートカットにした、黄金分割法で採寸されたような肢体をもつ少女だ。
なにやら軍服のようなものを身にまとっている。
「はじめまして。ご先祖さま」
ちらりと振り返った顔は、かなり控えめにいって美少女だった。
アーモンド型の茶色い瞳、桜色の唇、健康的に白い顔色。
「きみは……? ご先祖……?」
しかし龍哉には、せっかくの美少女をゆっくり観賞する余裕などなかった。
あまりの事態に目を白黒させている。
理解が追いつかない。
「話はあとで。まずは暴徒を鎮圧するわ」
少女がぱちんと指を鳴らす。
「眠れ」
という言葉とともに。
たったそれだけで、ばたばたと住民どもが倒れてゆく。
糸の切れた操り人形みたいに。
「おおー さすがに地球人は魔法に耐性がないわね。抵抗ゼロとか」
感心したように笑っている。
「それは……?」
「初級の眠りの雲よ。増幅器で強化はされてるけどね」
「…………」
龍哉の質問に返ってきたのは、よりわけの判らない言葉だった。
混乱の小鳩が頭上を飛び回る。
「いきなりのことで戸惑ってるとは思うけど、あんまり時間はないの。魔法を使ったから探知されてるだろうし。詳しい話は母艦に戻ってからってことで良い?」
質問のかたちをとっているものの、それは確認だった。
もちろん龍哉に否やはない。
むしろ、この状況で放置された方が困る。
ぎこちなくうなづく。
「集まって集まって。ご両親さまも妹君も」
手招きし、身を寄せ合った四人に少女が微笑を向けた。
「転移」
「提督」
司令室に入ってきた美貌の副官の蒼白な顔色を確認し、アダルバートは凶報だと悟った。
「悪いニュースのようだな」
「出し抜かれました」
悔しさを滲ませた声をルクレーシャが絞り出す。
ごく短い言葉だが、憤怒の感情がこぼれ落ちそうだ。
そしてそれは、もちろんアダルバートにも共通する思いである。
「……どこだ?」
光が三百万キロの旅をするほどの空白を挿入して訊ねる。
すべてのお膳立てをひっくり返された。
「使用されたのは、コモンマジックだろうとのことです」
「王国か。あの運命論者どもめ」
ち、と舌打ちする。
カギは奪われた。
奪われてしまった。
世界は灰色の闇に沈むのか。
アダルバートが右手を眉間にあてる。
一気に二十歳も老け込んでしまったかのように、ルクレーシャには見えた。
「提督……」
「少しだけ考える時間をくれ。善後策を講じる」
「……はい」
気遣わしげに副官が頷き、敬愛する上司を見つめる。
世界の命運という重い荷を背負わされた男の、その横顔を。