運命的の時
月に一度、姫は神官達に付きそわれ、霊山ラトスの頂き造られている、祭壇へと向かう。神の御使いに供物を捧げる為に、
……ラトスの大祭に捧げられる、特別な供物を受け取った御使いは、それを神に届け、供物の魂に国を護る力を与える。
旅の道すがら、それとなく神官達が囁く様に、幾度も繰り返し、話をしていた。
輿に身を任せながら、初めてこの儀式に挑んだ時の事を思い出す。前日より、潔斎の為に食事を取らず、まだ暗い内に起き、冷たい水で身を清めた後、
真新しい、白い無地の衣に袖を通し、準備を整える。そして、朝暉の祈りを終えると、塔を後にする。
………怖い、霊山で最初の儀式を終え、天空から舞い降りた御使いが、供物を啄む光景を目にした時『捧げる』言葉の意味を姫は悟った。
サリの姫様が護って下さっている。と言われている事、そして旅空での神官達の囁く声。運命が目の前に舞い降りていた。
足が震え、神官達に手を借りなければ、山の頂きを後にする事は出来なかったかつての姫。
ようやく、山道の中腹に置いてある輿に乗り込むと、そこでは、何時もより濃く、たきこまれた甘い香の薫り、姫に穏やかさが戻る。
そして、儀式を幾度か繰り返すと、思うことも無くなり、かえって姫のお役目に対し、一層深く向き合える様になった。
……輿が揺れる度に、布の隙間から垣間見える、周囲を守る警護の兵士。そして、地にひれ伏し頭を下げ、敬意を表す街の人々。
姫は年を数えた。ラトスの大祭迄後は、一つ月と一つ夜、ここに来てから過ごした時と、かつてカザで過ごした時と、同じ年月となる。
――――大祭の時に捧げられるのは、魂を持つ特別な供物。皆を、護る事が出来る力を、与えられる姫。死してからのお役目を受けとる儀式。
少し手で布を開き、青い空に目を向ける。何時もと変わる事が無い、静かな時の中、突然輿の歩みが止まる。
騒然とした、外の気配が姫へと届く。やがて慌てた様に、来た道を急いで戻り始めた。訝しげに思う姫の耳に入ってきた人々の声。
ついに、隣国からの宣戦布告が届いた。戦になる。戦になるぞ!
血気盛んな民族のこの国の人達、その声は怯えよりも高揚し、高らかに迎え撃つ、と交わしあう。
遠ざかる山頂に目をやりながら、姫は時が早まったのを知る。何故なら
かつて、小さなカザの町でさえも、出陣の時には、神に山羊を供物として、捧げていた事をうろ覚えながら、思い出したから。
―――塔に戻り、夜を迎えた。明日に備えて、甘い薬湯以外は、口にする事は出来ない。今、姫は塔の最上階で、サリの街を見下ろしている。
あちらこちらにで、火が焚かれ、人々は浮き足だっている。まるで、収穫の祭の日の様に、
ふと、足音に気が付く、コツコツと確かに此方に向かって登って来る、複数の気配。
入り口を振り返ると、そこには神官達の姿。
物言わぬ彼等達は、膝まずき、姫へと深々と頭を下げる。
そして、再び顔を上げた神官たちに、全てを了承した彼女は、彼等に軽く手をあげる事で、答える。
姫様の、同意を得た彼等達は、静かにその場を後にした。
祭壇に向かい、最後の祝詞をゆっくりと、唄い始める。進むにつれ、気持ちが高まって行く。
勝利を願う。この国を、人々を護りたい。夜に立つ事にも、時が早まった事にも、不安はない。何故なら
サリの姫であり、ラトスの姫であるのだから、今から向き合うお役目に対し、仕える主に、失礼はあってはならない。
終わる頃にあわせて、神官達がこの場に姿を現す。手を引かれて、階段を降りる。二度とここには戻る事はない。
重い扉が開かれ、しっとりとした夜風が吹く外へと出る。街の喧騒が、ここまで届いていた。
この先立ち向かう、慈悲な行いの運命、命のやり取りを、行う為の準備を整えつつある人々
その闘志に満ちた覇気がこの地から、立ち上がっているかの様……
―――用意された輿に乗るべく、進んでいると、突如聞こえる、奇襲!との鋭い一声、神殿の敷地の外で、控えていた護衛の兵士一人が、こちらへと駆けてくる。
姫様をラトスの山頂に、と神官達が慌てふためく。我々は、ここを守らなくてはならない。
対応に終われる大人達、姫は眺める事しか出来ない。やがて、二人の神官と、一人の手慣れの兵士とその配下の者達が、闇に紛れ姫を守り、ラトスへ向かうと話がつく。
ベールをの姿は目立つので、取り去り代わりに、黒い布を目深に被る様にと、兵士に手渡される。
ここに来てから、初めて手にする黒い色、言われるがままに姿を変え、時間が無い、と急ぐ兵士に手を取られ、外へと出る。
そこには、剣を手にした、数名の若い兵士達が控えていた。
行くぞ、と彼等に声かける兵士。わかりました。と、強い声で答える、その者達を目にした姫は、
誰もが顔を下げている中で、一人優しい笑顔を向けている者に気が付く。その若い兵士は、声に出さず、名前を呼ぶ。
『ルス』
それを目にした時、深淵に沈め、浮かび上る筈がない、忘れた、と思っていた、かの地の時が鮮やかに甦る。
姫の瞳に溢れ出てくる、止まらない涙、しかしどうする事も出来ない。何と残酷な、と姫は嗚咽を堪える為に唇を噛み締めた。
これ以上彼を見ていると、お役目に差し支えると、慌てて視線を剃らそうとした時に、彼が再び動く。
『助ける』
目を見開く姫、しかし確かにそう姫の目にはうつった。
………何かが動いた。揺るが無い筈だった、神に、運命に対しての強い意志が、
いともあっけなく、崩れ、揺らいでゆく。こんな筈ではなかった、と姫は気づいた事に悔やむ。しかしもう遅い。
心の枷が涙と共に、流されてゆく、身にまとわりつく目に見えぬ網が、若い兵士によって、破られてゆく。
止められぬ熱い想いが、姫の中で沸き上がる。
―――ラトスへ向かうべく動きだす、伝えたいと姫は思う、激しく、強く願う。カザでの最後の夜に、口に出せなかった、一つの言葉。
背後を護衛する彼を振り返り、声を出せぬ中、万感の想いを込めて、姫は暗闇に包まれた、霊山の頂きを指差す。
彼になら、声に出さずとも、届くであろうと儚き望みを託して。
―――太陽が山頂を照らす、その時迄に助けに来て、待っている。