旅の空の下で
サリの街に近づくにつれ、吹く風は、山とは違い、優しく暖かいが、それは姫には、届いていない。
広がる大地も、道端に咲く花も、姫の目には入らない。
………わたしの、なまえ、私の名前、わたしの、なまえ、
旅の当初、姫の心を占めていたのは、その事だけ。
サリの神殿迄は、大人の足で歩いて七日、姫は四方を布で覆われた、輿に乗り歩くことはない。
輿の中は、贅を凝らし美しく装飾され、長時間過ごせる様に、柔らかな敷物、背もたれ、そして漂う甘い香の薫り……
姫様、誰もがそう呼ぶ、しかしそれは輿から降りる時だけ、後は、カザの神殿を出てからは、何も話さない。
大人四人が担ぐ、輿が揺れる度に、布が揺れる。その度に目に入る一人の少女、姫と同じような年頃。
その少女は、遅れる事の無いように、細い足で懸命に歩いている。しかも、身の回りの事は、少女が、神官に言い付けられながら、こなしていた。
太陽が強く照らす日中も、少女は歩く。どんなに、暑くとも、険しくとも、辛くとも、歩かなければ、捨て置かれる。
かたや姫は、輿に身を任すだけ、美しい装束に袖を通し、食事も旅空にもかかわらず、別に用意されている。
日々の身仕度を無言で手伝う度に、少女の目に浮かぶ、憧れの色。
………二人の同じ年の少女の違い。姫に仕える少女は、日々、歩き続けているその足は、土にまみれ、石につまづいたのか、傷にまみれている。
選ばれた少女は、歩く事もない。暑い日差しの下に出ることもない。甘い香の薫りの中で座っていれば、それだけでいい。
姫の心には、この旅の間に、一つ一つ知れずに枷が増えて行く。そして考える。
姫として、これからいきる道、神に捧げるその道とは、何かを。
カザの町で、神官から言われた事。
……立場には責任が伴う、姫様としてふさわしい振る舞いを、そして、貴方様は神に捧げるお役目のために、生きるのです。
先ずは、うろ覚えの祈りの言葉を、神官が朝に夜に捧げるのを、街に着くまでに、聞いて覚える事が始まりです。
それだけを課せられている。何もする事が無いので、姫は輿の中で、ほぼ全ての時を祈りの言葉を唱える事に、ついやしていた。
時が、淡々と過ぎて行く、カザの町を離れる距離に比例して、失われて行く『ルス』という名の少女。
イチゴを摘んで笑ったのは、いつの日だったのか、白い花を、幼なじみと一緒に見上げたのは夢だったのか……
あの青い空、冷たく吹き抜ける山の風、爽やかな花の香り。家族と共に食べた、あの時のあの味、
笑う少年の声、心が弾む彼の明るい声。それは本当に、この世にあった世界だったのだろうか。
………祈りの言葉が、姫を覆って行く。ゆっくりと、密やかに。
そして、姫は思う、早く忘れたいと、カザの町、家族を守る為に心はいらない。名前もいらない、と。
私は神様にお仕えする者、地を這い、働く事もない。美しい装束を身にまとい、祈りの言葉と共に過ごして行く。
祈りの言葉を紡ぎながら、かつての自分を消し続ける。
甘い香の薫りのせいだろうか、姫の意識はは悲しくも、寂しくもない。穏やかに晴れ渡る空のように穏やかだった。
かつて、青い空の元、キラキラと弾けるような笑顔をして、少年と駆け回ったあの時の姫はもういない。
その代わり、凛とした、姫様と呼ばれるにふさわしい、穏やかに笑みを浮かべるカザの少女がいた。
………神にお仕えして、皆を護る姫となる。それが私の成すべきこと。
―――ガタンッと輿が地面に置かれた。外から布が捲られ、神官の一人に手をとられ、姫は外へと誘われる。
ベールの向こう側には、姫様に頭を下げて、迎えるサリの神官達。姫はそれが作り物の様に思えた。そして、我が身も同じ様に、
彼ら達にも、この地にたどり着いた事にも、何も思わない。暖かく包むような風にも、何もかも、全てにおいて、ただ瞳に写るだけの景色。
空を見上げる。目に入る天へとそびえ建つ高い搭、これから姫が過ごす場所、それにも何も思う事はない。
手を引かれて粛々と、搭へと歩みを進める。
その姿には、迷いも嘆きもない。思い出は、既に姫の心の奥深くに沈めている。二度と浮き上がる事のない深淵に。
祝福の鐘が鳴り響く、空を神の御使いが、その雄大な姿を現し舞う。
物言わぬ神官達が、祝いの花弁を空へと撒く。
降り注ぐ色とりどりの美しい花びら、そのひとひらを手にする。
誰にも見せぬベールの中、穏やかに笑みを浮かべる。
重い扉が、開かれた。一歩を踏み入れる。冷たい空気が満ちたその空間。神聖なる神と共に過ごす場所。
案内の神官達と最上階へと進む。そこで、彼らの前で最初で最後の祈りの言葉を唄う。
これからはただ一人、誰とも話す事もなく、心を揺らすことなく、神にお仕えする日々が始まる。
この日、カザの少女は、ラトスの姫となった。